「ともいき堂」に重ねる自分の看取りとその後について
〇はじめに
はや3週間前となりますが、大阪の大蓮寺さん&應典院さんにて開催された「ともいき堂」さんの落成記念法要に参加させていただきました
お堂の落成記念法要、と呼ばれるのものへの参加自体が初めてのこと。どんな格好で行けばよいのかも分からずで。当日はドキドキしながらでの参加でした
今回はその「ともいき堂」さんの落成と、その後に行われたシンポジウムを通じて感じた自分の看取りと。その後について、書いてみたいと思います
〇そもそも「ともいき堂」さんとは
「ともいき堂」さんは、大阪市天王寺区にある大蓮寺さんが作られたお堂です。でも大蓮寺さんよりも、應典院さんという名前の方がよく知られているかもしれません
應典院さんは「葬式をしないお寺」さん。20年近くに渡り、社会に開かれたお寺さんとしてアート、演劇、コミュニティ作り。そして最近は終活や宗活にまで取り組まれてきた、「お寺の社会貢献」を実践されてきています
つまり大蓮寺さんと應典院さんは、従来からのいわゆる檀家さんと繋がりを持ったお寺さんと。従来とは異なる檀家さん持たないお寺さんという二つの顔を持つ。おそらく日本には他に類を観ないお寺さんだと思います
その大蓮寺・應典院さんが今回作られたのが「ともいき堂」さん
ともいき、という言葉には「共に生き、共に逝く」という意味が込められたもの。その建立の経緯は、建築費の一部を賄うために行われたクラウドファンディングの中でも大蓮寺・應典院ご住職の秋田光彦さんが語られています
ここはこれからのわたし達の社会における葬送と墓制を支える場であり、終活のセンター。その中でも特に、ひとびとの孤立化と無縁化が進む社会にあって、地域での看取りや弔いを担う場。そうした社会の中で宗教やお寺さんが何を成すべきか?という問いの中から出た「答」である、というお話をされています
そのためにもともいき堂さんは、これから三つの機能を今後担っていくそうです
ひとつは看取りや弔いの相談の場としての機能。従来のようなイエを単位にしたお葬式ではなく、家族や周囲からも孤立された方や無縁となった方の看取りや弔いもそのターゲットにされています
二つ目は、終活事業者を中心とした各セクターとの協働の場としての機能。ともいき堂さんは應典院さんがすでに持つコミュニティを繋ぐ場としての機能を、今後は終活に関わる方々にも広げていく役目を持っていくそうです
そして最後の三つ目となるのが、コミュニティの人たちとともに死生観を学び育てていく機能です。そこでは終活を単なる人生のゴールという個人的な物事で観るのではなく。人と人、コミュニティと人びとがともいき堂を通じ「看取り」と「弔い」を育む場なっていくことを目指されています
このようにともいき堂さんは、明確に、看取りや弔いを指向した場です。ただそれがいままでのお寺さんと異なるのは、檀家さんや門徒さんといったお寺さんとすでに繋がりを持つ方々を対象とするのではなく。繋がりを敢えて持たない方々をも包み込む、新たな関係性を紡いでいく場であることだと言えます
こうしたことが出来るのは、すでにアートや演劇活動などを通じて取り組まれてきた、應典院さんというコミュニティ作りの実践があったからこそと言えると思います
〇「ともいき堂」に重ねる自分の看取り
さて、このところご住職の秋田さんが言われるキーワードに「孤立化」や「無縁化」があります。今回の落成法要とそれに続くシンポジウムでも、この点について熱く触れられていました
実はわたしもこの「孤立化」や「無縁化」というキーワードは、いまの社会や死生観を考える上で、忘れてはいけない観点だと思っています。NHKさんが無縁社会という言葉を番組を通じて社会に投げ掛けをしてからすでに10年が経ちました。医療や介護の現場で働く方々にとってこれらすでに目の前の出来事になっています
それはわたしにとっても実は同じです。わたしには子どもや甥や姪もなく。おそらくこれからも持たない。その上、ファミリーの中では一番若い。つまこのままいけば親、兄弟を順に看取り、最期ひとり遺される身です
つまりその時点で私は無縁であり
そして孤立しています
その時に、誰が自分のことを看取り、そして弔ってくれるのか?
これは考えれば考えるほど、恐ろしいことです。誰が最後自分の骨を拾い。納骨をし。手を合わせてくれるのか。その時は実は、誰もそうした人がいないのではないか?むろんそれは自分が招いた結果ではありますが、それにしても、その想像から生じる不安は小さいものではありません
そしてこの不安は、これから多くの方にとっての不安でもあります。もはや、家族の誰かが自分を看取り。その後の自分に手を合わせてくれること自体が、この社会では「贅沢」なのです。そしてそうした社会の到来は、わたしが思っていた以上のスピードで迫ってきています
そんな時に出会ったこの「ともいき堂」さんのお話と存在は、わたしにとって一つの希望だと感じられました。たとえ家族はいなくても、誰かが自分のことを看取り。手を合わせ。そして弔ってくれる。そういう場を用意してくれている、という安心感
ともいき堂にはその可能性があるとわたしは感じました
とはいえ、わたしは「ともいき堂」のある大阪やその近辺に住んでいるわけはありません。もっと身近なところに、ともいき堂さんのような「場」があれば、安心はより大きなものとなるはずです
でもそんなことは、可能なのでしょうか?
〇だが「ともいき堂」さんは広まるのだろうか
そこで思うのは、理想はやはり、ともいき堂さんが應典院さんのある大阪だけでなく。各地のお寺さんにあることです
秋田さんはシンポジウムの中で、ともいき堂さんを、今後のお寺さんの一つのフォーマットにしたいと言われていました。つまりともいき堂が前例となり。そのフォーマットや試みが、各地に広がっていって欲しいという意味です
わたしもこの秋田さんのご意見には賛成です。そのようになっていってくれたら、わたしの安心感は更に増します
でもそんなこと、簡単に出来るものなのでしょうか?
例えば應典院さん。地域に開かれたお寺さん、既存の枠組みにに囚われないお寺さんとしての應典院さんの存在は素晴らしく。少なくない数のお寺さんやお坊さまが参考にされてきたものです。ですが、同様に上手くいっているお寺さんは実はそんなに多くはありません。ここ数年、さまざまな試みをするお寺んが増えていますが、それでもなお、應典院さんには唯一無二の存在感があります
それ故に、ともいき堂を目指したくても目指しきれないお寺さんが増えてしまい。やはりともいき堂さんが唯一無二の存在となってしまうのではないか?
そんな心配が未だわたしの中には残っています
〇ともいき堂さんが広がるために必要なこと
そこで考えるべきは、どうやってともいき堂さんのフォーマットを拡げていけるか。地域やお寺さんの特性に併せて、アップデートしていくかです
そのためにはまずともいき堂さんの取り組みを発信していくことが必要です。わたしもそう思って、この note を書いています
また多くのお寺さんやお坊さま。そして終活に関わる方々や、行政の方々にも、このともいき堂を知り。観ていただく機会を増やすことも必要だと思っています
そしてなにより、ともいき堂さんそのものが地域コミュニティを(新たに)繋ぐ役割を担うツールになり得ることを示していくことが必要です。その際には、「あれは應典院さんだから出来ることだから…」と思わせないための工夫や成功例が、なくてはいけません
そこで一つ思い出したいのが、ともいき堂さんの役割の一つに、終活事業に関わる方々の協働が含まれていることです。そこには、ともいき堂さんのフォーマットの展開には宗教者だけでなく、終活に関わる方々への参加が期待されています。エンディング・ノートを広めたり。新しい葬儀のカタチを提供することが終活事業者の役割ではもはやありません。もっと孤立や無縁に目を向け。共にこれからの時代の看取りと弔いを。それを実践する場を作っていきましょうという期待とメッセージが、ともいき堂さんには込められていると思います
〇最後に
今回の法要、秋田さんが facebook に書かれていますが、本来ならお檀家さんやクラファンの支援者に対して行われる形のものを。敢えて「終活の実務に関わる方々」を中心に招いて行うという、非常に興味深い形式のものでした
そこには上記したように、秋田さんの、ともいき堂さんがこれからの終活においてひとつの「核」となり。ともいき堂が人々を繋ぐ「場」となって欲しいという想いとが、込められていたように感じます
と同時にこうした活動を應典院さんと大蓮寺さんが行うことで、お寺さんとしてのこれからのポテンシャルを示していきたいという意気込みもわたしは感じました。ここで言うポテンシャルとは、それは本来お寺さんが持っている(いた)はずの、人と人。人と地域。そしてなにより生者と死者を繋ぐ場としての機能に他なりません
ともすると、ともいき堂さんは、ご縁を喪った方の終いと看取りだけを行う場と見られてしまいそうです。ですがその奥には、もっともっと深い。これからの10年、20年先を見据えたお寺さんのリ・デザインの想いが込められてると思います
そうしたリ・デザインの門出に出会えたことは、わたしはとてもとても嬉しかったです。と同時に、いろいろと宿題も貰ってしまったなぁとも思いました
ぜひみなさん、これからのともいき堂さんに、ご注目下さい。。