見出し画像

生きる意味とは

私たち人間は何故生きるのだろうか。生きる意味とはなんであろうか?そもそも生きるとはなんだろうか。

生物的に生きるとはどう言う事なのか、参考文献として今回取り上げるのは『進化心理学から考えるホモサピエンス』と言う本である。著者はAlan S. MillerとSatoshi KanazawaでAlanは北海道で研究をしていた事もあるそうだ。英語のタイトルは『Why Beautiful People Have More Daughters』とかなりセンセーショナルなタイトルになっている。

短い文章でこの本を要約すると

男の行動原理の根本にあるものはより多くの交配を求める事である。
女の行動原理の根本にあるものは自身と子供に長期投資をする男との交配である。

という事になる。つまり人間はセックスする為に生きているという事だ。違う言い方をすれば人間は長い歴史でただ繁殖を繰り返してきたとも言える。この様な言い方をすると誤解を招く可能性があるのも承知しているが、こういう事は先に吐き出しておこうと思う。

私は人間の無意識に起こる事には理由がつけられないと思っていた。全員が同じではないだろうが、人は恋に落ち、相手を求め、子供を欲する。男は女に比べ暴力的で、子育てが苦手だ。女はいつまでも若く居たいし、孤独に耐えられないと聞く。

だからこそ私はこの本を非常に楽しく読ませてもらった。普段から気になっていた無意識の部分の謎がいくつも解けたからだ。例えば

何故人は恋に落ちるのか。恋とは何か。
年配の女性に髪が短い人が多い理由。
女性の方が男性に比べコミュニティーの中で活発な傾向がある理由。
一夫多妻制が無い(多くの先進国が一夫一妻である)理由。
セクハラやパワハラが無くならない理由。
男性が女性に比べ子供の面倒を見ない理由。
男が権力や金に狂い、女がダイヤモンドに目がない理由。

など本当に面白かった。すべてはセックス…生存と繁殖に繋がっている。

この本を読んでいて気になったのは進化心理学が、その分野だけで人の行動原理を全て説明しようとしていた事だ。本の中でも社会学と対立した分野だと言う事が書かれている。私は科学者でも研究者でもないので分からないが、分野を超えて説明しようとは思わないのか。物理学を説明するには相対性理論、熱力学、量子論、電磁気学、ニュートン力学が必要となる。これらの一つの分野だけで物理学を説明する事が出来ない。超ひも理論がこれらを統合するモノだと聞いた事があるが、統合するものがなくてもいいではないかと思ってしまう。私の勝手な想像だと、人はこれらのことに美しさを求めている。一つの理論で全ての説明が出来ることは、非常に美しいという事なんだと思う。

話が逸れてしまったが、この本の最後の方でも未だに説明できていない、もしくは証明しきれない事柄がある事を書いていた。無理に進化心理学だけで説明しようというのは如何なものだろうかと思ったが、とにかく細かくは本を読んでいただきたい。

私たちの脳は最低でも最後の氷河期が終わった時から最低1万年間は進化を遂げていない事を、この本の最初でポルノ業界の話で説明する。1万年前と言えば中石器時代、日本で言えば縄文時代だ。その時から私達の脳は進化していないと言う。

進化しなかった理由に1万年前から環境が安定していなかった事、1万年は進化を遂げるのに十分な時間ではない事が書いてある。大きくこの2つの理由で約1万年のあいだ人間が進化せず、未だに縄文時代からの脳を持っている私たちは現在の状況を理解できていないと言う。例えば、いつでもどこでも食べれる様になったこと、脂っこいモノや甘いモノの食べ過ぎからくる肥満。映像で見るものと現実との境目(男がポルノ映像を見て興奮し勃起できる事)が脳にとっては両方リアルに感じることが例としてあげられていた。

で、何が言いたいのかと言うと、縄文時代に狩猟民族であった時の脳から根本的な脳の構造、つまり食べて、寝て、交配し、子供を増やすという形は今でも同じだという事だ。現在の私たちがやっている事と全く変わりはない。男も女もお互いに交配相手を探し、子供を作り、次の世代に遺伝子を残す。そうして私たちは存在するのだ。

ここで一先ずタイトル回収をしよう。ここに生きる意味はあるだろうか。セックスをし子孫を残し続けて、それでこの先に何があるのか。これを読んでいる人は多分100年もせずに死んでしまう。先祖から長い時間をかけて命を繋ぎ、私たちはまだ命を繋ごうとしている。果たしてこれに意味はあるのか。

勉強不足な私は哲学について学びたいと日々思っているが、なかなか手がつかない。哲学者であれば、これらの疑問に対してある程度の答えが出せるだろう。命とは、人間が生きる意味とは、これからの人間の未来など、深い言葉が世界には多くあるのだろう。

そんな深い言葉に触れられていない私は、悪い方ばかりに目がいってしまう。人間が居なくなった方が地球や地球に住む他の全ての生物にとって恩恵となる。多くの種が混じり合い生きるこの地球で、たった一種の人間だけが悪者に見えてしまう。私たちがこの先も同じ様に生存と繁栄を続けて、いったい何があるだろうか。悪い未来しか予想できない。ディストピアというやつだ。映画ターミネーターやマトリックスあたりが分かり易いだろう。

しかし悲しい事に、これを書いている私もその人間である。抗生剤を無理やり投与され短い一生を過ごし、食べられる為に生まれた家畜を食い散らかす。農薬をモノカルチャーで穀物や野菜を育てる事で土壌を汚しているのを知りながらも、その野菜を食べる。私はなんと弱い人間であろうか。何かを知りながらも結局は自分の幸せのため、生存のため食べる。その背後で起こっている事を見ながら、目を逸らし自分の欲を満たしているのだ。

私の普通が世間で言う普通かどうかはわからないが、私がこのままおっさんになって退職するまでにお金を貯めて、老後に少しづつお金を使って楽しく生きて、お爺ちゃんになって死ぬ。果たしてそれで良いのだろうか。それが生きるということなのだろうか。

これが生きるって事だとしたら、人は死んでるのとほぼ変わらないのではないか。子供を産んで子供が自立したら、親の役目は終わりでは?昔だったら親が残っていた方が、子供が生き延びる可能性高ったとしても、インターネットのあるこの時代では、調べれば解決方法は山のように調べる事ができる。日本だったら生活保護とかで最低限の生活は出来る。

日本の場合、生まれて、義務教育をうける、社会人になって、結婚して、子供をもって、子育てして、退職して、死ぬ。

これが私たちの生きる理由であろうか。

この50年ほどで計算機の発達により世界が激変した事は間違いないし、ある意味で脳は進化(もしくは退化)したと言っても間違いではない気がする。が、この本が正しいとしたら無意識に人がする事の多くは、縄文時代から、いやDNAが出来た20億年前から変わらず生存と繁殖であり、それ以上の意味が無くなってしまう気がした。

これだけの情報が飛び回るこの時代に、私たちはこのままでいいのだろうか。人が種として繁殖を繰り返しているのは動物と全く変わらない。個々は個として生きているつもりだが、結果として種としての生存をしているわけだ。私は何か馬鹿げている気がする。映画マトリックスのように機械が人間を作っている状態と何が違うのか。生きること、死ぬことに意味が無く、ただ繁殖を繰り返す。

たがそうじゃない生き方をした人たちもいる筈だ。伝説のようになっている人たちを考えてみよう。すぐに思いつくのはキリスト(神)とお釈迦さん。この人たちについて少し調べてみる事にした。

キリストが唱えた『愛』の概念。これが素晴らしいと考えられているのは生存と繁殖以外の生き方を見出したからではないだろうか。少しだけ触れてみよう。

日本語で愛と一言に言うが、実は4つある。4種類の愛である。日本語では(英語でも同じだが)それをまとめて愛と読んでいるが本当はストルゲー、エロス、フィーリア、アガペーと4つの愛がある。

ストルゲーは映画フィフス・エレメントを思い出して欲しい。ブルース・ウィルス主演のSF映画で、水、火、風、土のエレメントとそれをまとめる愛のエレメントがあった。そんなようなものだと思ってもらえたら問題ないのではないかと。神の作った自然、宇宙を愛せ、という事だろう。

エロスは性愛。そのまんまだ。これはある意味で日本語にもなっている。意味は若干違う気がするが。大体の人は性欲を持ち、無意識にそういう行動をとっているのは上記した通りだ。

フィーリアは隣人愛。友愛という人もいる。友愛と聞くと友愛団体フリーメイソンを思い出すのは私だけか?フリーメイソンが何をしているのか私にはさっぱりだし、今回の生きる意味を見出す上で関係はないですが。これの基本となっているのは、自分を愛するように、相手も愛するという概念である。自分を愛せないと、相手も愛せれないという事だ。

アガペーは真の愛である。真の愛とは何か。神は言葉であり、神は愛である、と聖書には書かれている。アガペーの真の愛は人間が理解することの出来ない愛である。『無償の愛』とも呼ばれているそれは、神が一方的に人間を愛し見返りを求めない。親が子供を育てるのがこれにあたると思っている人もいるようだが、親は子供によく育って欲しい、良い人生を歩んでもらいたいなど、なんらかの(意識、無意識に関わらず)意図が絡んでいる。神からの愛は完全なる無償である事が、このアガペーで言われる事だ。

さて、生きる意味の話だった。アガペーはこの話から置いておく(人間には理解出来ないらしいので)。エロスはわかるだろう。互いの体を求め合う、そういうことだ。となると残りはストルゲーとフィーリアだ。宇宙を愛し、全ての人を愛する。そんなに難しい事ではなさそうだ。生存、繁殖の基本に自然と人を愛するが加えたのだ。そしてそれが、今でも多くの人の心を掴んでいる。

お釈迦さんはどうだろうか。お釈迦さんについて調べてみたら、これはもう情報が多くて困った。その中から私が面白いと思った本を紹介する。ちなみに空と縁起という言葉を中心に本を探しました。

『もうこれ以上、人間関係で悩まない極意ー今こそ「縁起人」として生きろ』の著者である苫米地英人氏。調べてみると色々な意味で有名な人物である様だ。とにかく肩書きが山のようにある人物である。脳機能科学者であり、仏教にも通じているようだ。オウム真理教事件が起こった時に脱洗脳をしたらしい。私がとやかく言うよりまずはwikipediaを見てみる方が速いだろう。

この本によれば釈迦の教えはあくまで現代に生きる人へのものという事だ。キリスト教で言う天国のことを考えるくらいだったら、今の状況を心配しろと言う。

釈迦が悟ったものとして『縁起』というものがある。全ては繋がっていて、他との関係によって成り立っている。それ一つで独立し存在しているものはいない、という考え方である。

釈迦の教えは『空』という概念がある事。空というのはお釈迦さんが唱えたモノで、無と有の両方を超越した概念である。何も無く、全てが有る、その両方の状態を表す。宇宙をこのような見方をする事を空観と呼ぶ。具体的にいうと自分というモノは周りとの関係があるから存在している。もしかしたら自分という存在は無いのかもしれない、ということです。周りにいる人や環境が変われば自分も変化するということだろうか。

その空の中で生きる私たちが、物事に意味や役割を与える事を『仮観』。役割を与えるという事は、そのモノに存在意義を与えると言うこと。

この世の全ては空であり、縁起によって繋がり、仮観によって意味を持っている。この世にある物は全て、何かしらの存在意義があるという事です。そしてその存在意義をはっきりと理解する事が大切であるとこの本には書かれている。

本からの一文をここに掲載します。

「仮観」の思想の持つ意味とは、世のすべての存在が「空」だと理解したうえで、すべての存在に役割があるから、厭世的(えんせいてき)になってはいけない、現実逃避をしてはいけないということになります。
苫米地 英人. もうこれ以上、人間関係で悩まない極意 ─今こそ、「縁起人」として生きろ。─ (Japanese Edition) (p. 32). Kindle Edition.

私が厭世的になっていた事を見透かすような言葉であった。ちなみに厭世(えんせい)という言葉を見たこともなければ、読み方もわからなかったので調べましたが。

一人ひとりがお互いに宇宙を生み出す大事な存在であることを認識する……、このような、完全に「空観」「仮観」を理解できたバランスのよい状態が大乗仏教の「中観」なのです。
苫米地 英人. もうこれ以上、人間関係で悩まない極意 ─今こそ、「縁起人」として生きろ。─ (Japanese Edition) (p. 36). Kindle Edition.

悟りを開いた釈迦は悟りの世界を人々に見せるため、苦しみから放つ為に歩き教えを説き回りました。釈迦は悟りを開いた後に、社会の為、人のために行動したと書かれています。

何故、釈迦は社会のため、人のために行動することを決めたのか。と疑問を抱いたところでこの本は自己啓発よりの本に移行したので、次の本に移ります。で、次の本も同じ著者の『お釈迦様の脳科学』という本です。私の読解力では理解できない事が多かったです。

これら本で書かれている事を自分に当てはめてみました。私が今考えている事、命とは、生きるとは、死ぬとは全て空の中にあり、幻想であるという事。しかし縁起により全ては繋がっているともとれる。仮観で見れば生きること、死ぬことにも自分で存在意義をつけている事になる。

と言う事で自分なりに考えてみました。

人間が未だに繁殖し生きるのは、植物や動物がやっている事となんら変わりがない。人間という種はある意味で繁殖に成功し、他の植物や動物を超越した存在になっている。しかし、私たちは宇宙の大きさからすると、非常にちっぽけな存在である。この広大な宇宙、そして広大な地球があってこその人間なのである。

そんな宇宙の中で生きている私たちに、本当の意味での意味なんてないのかもしれない。だからこそ生きる意味も死ぬ意味も自分で考えるのだ。一つの完全な答えなんてないのだ。これが今回考えて出た答えだ。

私はなぜだか分からないが、人間を種として考えていて、種としての共通した存在意義があるものだと思い込んでいた。この無意識のわだかまりが取れて少しすっきりしました。

生きる意味も死ぬ意味も勝手に決めていいと言う事だ。

キリストも釈迦も人のために行動していた。言うならば社会貢献だ。彼らはなぜ、人間や世界に幻滅せず、人に貢献しようと思ったのか不思議でならない。彼らの動機はわからないが、自分でやってみない事にはその糸口さえ見つける事はできないだろう。進化生物学でいうなら人間の生きている理由の全てはセックス(繁殖)のためだが、人生それだけじゃないだろうし、私が行き着く場所がそこでない事を願う。

分からないから行動しないのではなく、分からないから行動し、生きる理由を探し、社会のために生きてみる。今はこれを私の『生きる理由』の一つとして生きていこうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?