小豆色の寂寥(2)
コウという名前の女性が主人公だ。
物語は、彼女が望まれない生を受けたところから始まる。
コウの親は、くにに出生を届ける気はなく、かといって娘を手にかけるでもなく、死なない程度に栄養を与えていた。ある豊作の年、鳥の神さまが人間界の視察に来た。鳥の神さまは様様な境遇の人間を哀れむ。綱渡りのような生活をしていたコウにも涙を寄せ、真っ白な翼をふるって人間の行動にほんの少し介入し、コウは、くにの保護下におかれて安全な暮らしを保障された。
だが、コウは、今いる場所に自分が不要なのだと感じ続けた。自我を持って十数年後、彼女は罪を犯し、一面が小豆色の部屋に幽閉される。物語は、牢を訪れた審判者に、コウがぼんやり笑いながら言った言葉で締めくくられている。
『そういえば、私がじわじわと時間をかけて殺した親子も夫婦も、最期まで相手のことばかり気にかけていたな。あれが世でいう愛というもので、私にまとわりつく凍てつきと、縁遠いものだったのかもしれない』
私は、しょぼしょぼする目をこすって、ふっと息を吐く。こんなお話だったのか。
「愛を知らない女性の話」、数文字で表すならこうなるだろうと考えた。
なんだか、悲しい話だな。樫のおじいさんはなぜこの本を大切にしていたのだろうか。
十七時といっても、蝉の声は大きい。
まだ夕暮れとは言えないような空の色を視界に入れて、私は、挿絵の女性を凝視した。
挿絵の女性コウは、客観的にはだれかから愛されていたかもしれないが、自身では愛されたという安堵感を得られなかった。だから、この絵のような、なんの期待もしていない、無機質、無気力、気だるさ、ただそこにいるだけ、といった雰囲気になるのだろう。
彼女の気持ちを一心に考えながら、苦く笑う。
まただ。映画にもニュースにも小説にも、私はどんなことにも感情移入しすぎる。自分の傾向は自覚している。
今も、コウという小説の登場人物に、声に出して問いかけるほど、感情移入をしている。
このひとは、愛という名称で呼ばれる、包まれて安心できるものを知らないんだ。お母さんとお父さんと、友だちと、楽しいことを共有してうれしくなるってことを、知らないんだ。なんだろう、さびしいことだなって思ってしまうのは、おかしいだろうか。見開きで描かれた小豆色の中の女性の心境を思って。
現実に、目の前にいるわけではないのに、私は胸の奥がはくはくと縮んでいくような悲しさを覚えた。
自分は不要だと思い続けてきたあなたを愛してくれるひとは本当におらんかったん?
あなた自身は、だれかを好きだなって思うことは一度もなかったん?
あなたは、愛されたかった?
愛を知りたかった?
返答などあり得ない問いを続け、首を振り、本を閉じようとした。
「ねえ」
ドアの向こうでお母さんが私を呼んだ。
のではなかった。
「愛することって、そんなに、いいこと?」
私の耳に鮮明に聴こえたのは、かぼそい女性の声。確かに、知らない、女性の声。
蝉の声が止んで、時計の針の音がしなくなって、急激に湿度が高くなった気がした。息苦しい。
「私の物語をずっとずっと持っていてくれたあの男のひとも、愛することを知らなかったわ。いいえ、愛することは知っていたかもしれない。でも、愛されることを知ってはいなかったんじゃないかしら」
次に耳に届いた言葉は長かった。
まさか、と、お伽噺の世界に引っ張り込まれたような感覚に陥る。今の声は、まさか。
肌が粟立つのを感じながら、小説の見開きの挿絵にもう一度目をやる。
「ひっ」
絵が動いていたのだ。
小豆色の部屋の中の女性が、本の外側にいる私のほうに顔を向けていた。