アニメ映画感想『がんばっていきまっしょい』――近年ではむしろ珍しい(?)直球の青春アニメ映画、だが……
1.総評
絵に描いたようなツンデレ(死語?)とお嬢様言葉を話すお嬢様が、互いへの対抗心からボート部に入り、何かと張り合っているのだが、実はツンデレも大富豪の娘であり、その家は洋館風の豪邸で、彼女の私室はおとぎ話の王女のごときメルヘンな装飾であふれている……。
このような設定を、あーはいはい、こういうやつね、と微笑みながら受け流すことのできる人は、アニメ版『がんばっていきまっしょい』(2024)の世界に立ち入ることを、ひとまず許されている。なんだそりゃ、馬鹿にしているのか、などと怒り出す器量の小さいやつは回れ右だ。
実際、『がんばっていきまっしょい』は、この種のベタベタな展開に満ちている。シネフィルやアニメファンでなくても、普通に映像作品に触れて暮らしてきた人であれば、ほぼすべての場面に何らかの既視感を覚えるはずだ。キャラクターや部活動の描写はもちろん、恋愛も同様。ボートの漕ぎ方を教える過程で身体が触れ合うとこから恋が始まり、花火大会では些細なすれ違いが起こり……といった、きわめて古式ゆかしい描写が手際よくこなされていく。
しかし、結局のところベタがいちばん強い、というのもまた事実ではあるだろう。クラスマッチの場面から始まったこの映画が、一年後のクラスマッチの場面に至ったときの、ああ、あっという間だった、けれども彼女たちにとっては決定的な一年だったのだ、という感動。最後に部室を閉じるときの主人公のためらいの切なさ。こうしたシーンは、もちろん決して独創的というわけではない。しかし、誰もが感じ入ってしまうところがあるはずだ。
そう、『がんばっていきまっしょい』には、素朴であるがゆえに確かな感動がある。ごく率直に言って、良心的な映画だと言えるだろう。その良心は、物語においても演出においても、過度な誇張や不要なサービスをしない実直な語り方に由来するものだ。物語の周縁に位置しながら彼女たちを見守る男子部員も、助力者としてしかるべき存在感に収まっており、彼が素晴らしい速さでボートを漕ぎ進めていく姿をロングショットで捉えたシーンは忘れがたいものがある。
2.観覧車回れよ回れ
この映画は後半の展開で明らかに失敗している。先述したベタベタ恋愛描写の後、勝手に失恋したらしい主人公は、これをきっかけになんやかんやと悪循環に陥り、オールを折って幼馴染に怪我をさせてしまう。失意の主人公は「ボートなんて何のために頑張るの?」(大意)などとうだうだ言い始め、部活をサボり始める。活動不能に陥ったボート部の行く末やいかに……というのがこの映画におけるセカンド・ターニングポイントになるのだが、しかし、観ている側としては少しもドキドキ感はない。どうせこの人が復帰しなきゃ物語が進まないんだから復帰するに決まっているわけで、さっさと機嫌を直してくれ、とイライラするばかりだ。
このような展開が面白くないのは、起きている問題がすべて主人公個人の内面で完結しており、ボートレースで勝つために仲間と頑張るというこの映画が本来描くべき筋をいたずらに停滞させているからだ。他人の愚痴ほど聞いていてつまらないものはない。
そもそも、この人がうだうだやっていたせいで部員たちは長期にわたり振り回され、貴重な練習の時間を失い、大会出場の機会をひとつ逸したのだから、部活に復帰するというなら、彼女は(というかこの映画は)、このことの取り返しのつかなさにもっと向き合わなければならないだろう。そうして初めて、この映画は彼女の人間としての成長を描いたと言えるのではないだろうか。
人間としての成長という点で言うと、主人公の悦ネエは思春期、第二次性徴の過程を適切に推移することができなかった少女として設定されている。幼い頃は何をやらせても輝いていたが、中学校になるとどうしても体格的には男子に負けてしまう、勉強もうまくいかなくなる、気持ちが複雑になっていく、それで、少しずつ無気力になっていった――とこの映画は語る。
だから彼女は幼い。幼いので、あからさまに手を抜いてサボったり、ノートに幼稚園児みたいな落書きをしたり、上記のような状況に至ったりする。
そのような「子ども」である彼女に対し、冒頭のシークエンスから一貫して庇護者=「母」としてふるまっていたのが幼馴染のヒメだ。彼女がコックスとして掛け声をかけたりボートの指揮をしたりする役であることも、そうした母性的なイメージを強めている。このような構図を提示した映画は、もちろん主人公の成長を「母離れ」を通して描こうとするはずだ。
悦ネエは観覧車のゴンドラの中で、復帰を決意し、4人にメッセージを送る。なぜだろうか。彼女はそこで、ひとりきりの空間から世界を俯瞰することができたからだ。世界を俯瞰することは、自分自身を俯瞰することにほかならない。彼女はそこで、自らの置かれている場所、自ら欲するところについていま一度考えるだろう。だが、答えは既に見えている。離れてみて初めて気づくものがあるのだ。彼女が「母」のもとへ戻るとき、彼女はもう以前の彼女ではないだろう。行きて帰ること。今も昔も、それが通過儀礼というものではないか。