江戸文字って知ってる? <勘亭流・寄席文字・籠文字>
私たちが普段の生活で目にするのは明朝体とゴシック体ですが、ほんの百数十年前までは筆の手書き文字しか存在していませんでした。
たとえば浅草の町を出歩くといろんな筆文字に出会います。
これらの筆文字は一筆書きのものだけでなく、加筆修正をして字形を整えるものやレタリングに近い工程を経て制作している描き文字もあります。
これら江戸文字と呼ばれる書体のルーツに迫りたいと思います。
江戸文字ってなに?
江戸文字の起源は御家流という書風がはじまりといわれています。
もともと日本の書というものは流派によってさまざまで「この文字の形が全国共通のお手本です」という見本が存在していませんでした。
江戸時代の中期に「これを統一の手本にしよう」幕府制定の書体として一本化されたのが御家流です。現代でいうところの教科書体フォントのようなものでしょうか。
この御家流を起源として、さまざまな江戸文字が誕生しました。
ひとくちに江戸文字といえどもいくつかの種類があります。
その代表的なものとして
芝居文字(勘亭流)
寄席文字(橘流)
籠文字
髭文字
相撲文字(根岸流)
角文字
薔薇文字
などが挙げられます。
今回は芝居文字、寄席文字、籠文字の3つをご紹介したいと思います。
芝居文字(勘亭流)
グラフィックデザインを生業としている方なら勘亭流という名前を一度は耳にしたことはあるのではないでしょうか。
この書体のルーツは御家流書家であった岡崎屋勘六が始祖とされています。1779年に中村座の新春狂言のタイトルであった御贔屓年々曽我という文字が起源だそうです。
なるほど達筆すぎてまったく読めません。
しかしこのクールな書風が大変な話題を呼び、歌舞伎座とともに全国へ広まることとなります。
ひと目で読めないということは、何度も舞台へ足を運ぶ常連さんにしか解読できないということです。つまりこの文字が読めるようになったら通だね、といった感じに認められたそうです。
江戸時代には判じ物と呼ばれる謎解きゲームのようなものが流行りました。町中にはパッと見では解読できない、判じ物の店看板も多く見られます。こういった口コミで広げたくなるような遊び心が江戸の人々の心を掴んだのかもしれません。
勘亭流に込められた「ゲン担ぎ」
そうして一気に全国区となった勘亭流ですが、字形の面白み以外にもう一つ広まった理由があります。
わかりやすくフォントで比較してみます。
勘亭流の特長として極太、丸み、ハネが内側という3点が挙げられます。これは興行の成功を祈念したゲン担ぎであると言われていて
隙間がないほど文字が太い(=客席空かないように)
丸みをもたせ尖らせない(=興行の円満成功を祈る)
ハネが内側(=客さんを劇場に招き入れる)
といった理由があったそうです。ゲン担ぎの好きな江戸っ子にとって、こういった縁起のいい裏設定も勘亭流が愛された要因であると考えられます。
これらの意味合いについては後付けかどうか定かではありませんが、先述の勘亭流のもととなった文字を見る限り、岡崎屋勘六がクライアントにそういった主旨のプレゼンをしたのかもしれません。
↑勘亭流の一例。読めない人のためにふりがなが併記されています。
寄席文字(橘流)
噺家の橘右近によって確立された書風が寄席文字(=橘流)です。
もともとのルーツはビラ字と呼ばれる広告宣伝用の文字をベースに改良されたものが寄席文字であると言われています。
おもにチラシやポスターに使用されていたため、勘亭流と違って可読性の高さがポイントです。
文字に込められた意図として隙間をできるだけ無くすというところは勘亭流と同様ですが、さらに右肩あがりの字形が特長です。
いまも新宿の末廣亭は橘一門によって手書きの寄席文字によってつくられています。
笑点のロゴも寄席文字
いまもお茶の間で人気の笑点の文字を描いたのも橘右近。意外と近年に確立された文字ということがわかります。
ちなみに笑点のロゴは50周年(2017年)を機にリニューアルされています。作者はお弟子さんである橘左近さんです。
籠文字
浮世絵師である歌川国芳の門人である歌川芳兼や梅素亭玄魚によって確立された書風です。千社札が起源とされ、その後は提灯や半纏などに広く使用されています。
ステッカーとしての千社札
千社札の起源はもともと自分の願い事を書いてお納めする、絵馬に近い使われ方をしてきました。それが木版印刷の量産が容易になるとともに、自分の名前が印字されたステッカーとして神社仏閣に貼ることが流行しました。
これは天愚孔平という有名な変わり者がいたそうで、江戸近郊の神社仏閣を訪れては建築物に自分の名前をサインしていったそうです。(もちろん現代なら大問題ですが...)
その活動がだんだんとエスカレートしていき、自作の木版ポスターを貼り付ける行為を重ねていったそうです。その寄行が江戸時代の人々の話題を呼び、千社札の文化の始まりになったと言われています。そうしてだんだんと千社札のサイズ規格やルールが定められていきました。自分の名前が書かれた札を建物に貼る行為は、参籠という寺院への宿泊参拝の代わりになったとされています。
建物に貼られたお札が経年劣化により少しずつ剥がれていきますが、単色で書かれた文字の部分だけが墨の防腐効果により名前だけが残ります。
この現象を抜けと呼び、縁起物として人々に愛されてきました。
上記は「抜け」の例。経年が長いほど紙の部分が薄くなります。
名刺としての千社札
千社札も歴史を重ねるにつれて、参拝用ステッカーという用途(貼札)から広がり、色札や交換納札と呼ばれる文化に成長します。
印刷技術の発達にともない、江戸の絵師たちがこぞってきらびやかな千社札を作り始めました。これらは参拝用の貼札とは違い、商人たちが使用していたようです。
お得意さまや社交場での挨拶を目的とした名刺として使用するケースが増えていきます。中には浮世絵のイラストレーションだけが描かれたものも多くつくられ、珍しい絵柄だけを交換し合うコレクターたちもたくさんいたようです。
ご興味のある方はこちらの国会図書館デジタルアーカイブをご覧ください。
籠文字としての確立
そしてこの籠文字は明治時代に入り、太田櫛朝や高橋藤(初代・二代目)らによって書風が確立されていきます。「江戸文字」というジャンルをくくったのも二代目の高橋藤と言われています。
籠文字は火消しが切る纏や祭の衣装として知られる半纏の文字としても広く使用されていきます。
籠文字は勘亭流や橘流とは違い、装飾性が強いという特長が挙げられます。
これは提灯や千社札、祭の半纏など華々しさを求められる場面で広く使用されてきました。各地域の絵師や文字職人たちが、こぞって個性を発揮した書体であるとも言えます。
籠文字はいわゆる書道的な描き方の文字ではなく、現代でいうところのレタリングに近いつくり方をします。
作字をする際にまずは輪郭線を縁取り、籠目状にラインを入れてから中身を塗りつぶしていたことから籠文字と呼ばれるようになったそうです。
字形としては正方形に近いフォルムが特長です。千社札や提灯などの媒体による制限がルーツともいわれています。
文字のルーツをたどると、その形状に至った経緯だけでなく、背景の文化も浮かび上がってきて興味深い内容がたくさんあります。興味のある方はその他の江戸文字も調べてみてはいかがでしょうか。