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【企画SS#百人百色】あの日と同じ月が

三羽さまの企画参加作品です。

【お題】百人一首No7:
    あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも
    
(古今集 覊旅 406)安倍仲麻呂

    (簡約)天を仰ぎ見れば、遙か昔故郷で見たあの月が出ている


 あの日と同じ月が、ただ煌々と俺を見ている。

「駄目だ」
 断じると、部下は息を呑んだ。
「それでは折り合いません」
「なら切れ」
「課長!」
 部下の声にチームは水を打ったように静まる。張り詰めた空気のなか、PCの操作音が響く。
 俺はモニターから目を離さずに指示を続ける。
「呑まないなら切れ。こちらの要求を呑むか取引を中止するか、ふたつにひとつだ。これは交渉じゃない。通告だ。職務を間違えるな」
「…ウチが取引を中止したら、あの会社は潰れます」
 動揺と怒りを隠さず、部下は言葉を重ねる。煩わしさに知らず眉が寄る。こいつは優秀だが、たまにこうして職務を誤る。それがとても残念だ。
「だからなんだ」
「なんだ、って。長年の取引先を倒産させてもいいんですか?」
 うるさくてモニターの計数に集中できない。チーフ格がこれでは困る。
「倒産させるのはウチじゃない。ウチの条件を呑まない先方の社長だ。判断の責任は自分で取るしかない。倒産覚悟で条件を拒否するなら、それが先方の判断だ。その結果にウチはなんの関係もない」
「ウチが関係ないって、本気で言ってるんですか」
 心底うんざりする。こんなやりとりは時間の無駄だ。
「当たり前だ。対等なビジネスパートナーに対し、今後の適正な取引条件を提示した。先方はそれを受け入れず、取引は中止となった。結果、先方は倒産した。その場合、ウチは不当なことは何もしていない。採算を考えたらこれまでの条件では取引を継続できない。ただそれだけだ。おまえは何を問題視している」
「創部当初からの取引先ですよ。こんなに簡単に切り捨てるんですか!」
 部下の言葉にチームは静まる。PCの操作音さえしない。
「…まるで通夜だな」
 くだらない感情論には付き合えない。
「もういい。おまえはこの件から外す。明日の面談は俺ひとりで行く」
 部下の瞳に怒りが燃える。俺の胸には冷たい風が吹く。こんなことは時間の無駄だ。

 外すと言ったのに、部下は面談についてきた。不満と緊張を隠さず、無言で助手席に乗り込む。とんだカバン持ちだ。追い返すのも面倒なのでそのままにした。部下は車中、ずっと窓の外を見ている。
 先方に着く。約束の時間には早い。しばし車内で待つ。部下は窓から社屋を見ている。なかで働く人間の気配を察知しようとするように。
 時間になった。
「行くぞ」
 ようやく部下がこちらを向く。一瞬だけ合わさった視線がすっと俺の胸元に落ちる。俺は構わず車を出た。
「ご無沙汰しております」
 出迎えた社長は穏やかに微笑んでいる。その笑顔はずっと変わらない。髪が白くなっても。皺が深まっても。隣では専務を務めるご子息が、強ばった顔で控えている。
「最近はなかなか顔を見せないな。偉くなってしまって寂しいよ」
 席に着く。張り詰めた空気のなか、社長だけが穏やかだ。
「お願いです。こちらの条件にイエスと言ってください」
 担当直入に切り出す。部下は目を見開き、専務は息を呑む。社長は穏やかな微笑のまま答える。
「それは無理だ」
「いいえお願いします。御社との取引を続けさせてください」
 部下の視線が刺さる。
「申し訳ないが」
 社長の声はどこまでも穏やかだ。そしてどこまでも意思は固い。それでも俺は言葉を重ねる。
「私のお願いでも、ですか」
 社長がはは、と相好を崩す。好々爺の顔だ。あの日、社屋に飛び込んできた新人担当者を出迎えた顔。あの日からは、何もかもが変わってしまった。
 外部環境も、会社も、俺も。ただこの人だけが変わらない。
「君の必殺技だな。その一言で、ウチがどれだけの取引に応じてきたか」
 社長の視線が俺の胸元に留まる。胸ポケットに挿したボールペン。独特な、美しいクリップの形。
「…まだ持っていたのか」
 苦く優しく、声が笑む。変わらないな。君はそうやっていつも、それを。
「社長。どうかお願いです」
 そうだ、俺はいつもこう言った。好々爺の顔で、この人はいつも、
「…すまない。君には世話になった」
 今まで、ありがとう。
 …この人は、いつも。

 正式な社内決定は後日報告することを伝え、我々はその場を辞した。空は藍色に沈み始め、白い月が煌々と光っている。
 あの日と同じように。あの日も俺はこうして月を見ていた。初めて獲得した契約書を持って、会社に帰るところだった。
 月はあの日と同じだ。それなのに、何もかもが変わってしまった。
「…そのペン、」
 部下が俺の胸元を示す。美しいクリップ。繊細な、職人の仕事。
「ただの験担ぎだ」
 初めて獲った契約。初めて扱った商品。それは困難な交渉の時、必ず力になってくれた。好々爺は胸に挿したこのペンを見ると、いつも困ったように眉を下げた。
 適わないな、君には。…苦く優しく、笑う声。
 あの日から、あの人から、俺はあまりにも遠くに来てしまった。
 その俺を、あの日と同じ月が見ている。


お題違いで後日譚も公開しました。
よろしければこちらもどうぞ。
(後日譚)
【お題】百人一首No57:
    めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜はの月かな




 

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