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『4分33秒』と「雲隠」

『4分33秒』という曲がある。
演奏者は…たいていはピアノの前に座るが、ピアニストでなくてもかまわない。なにせ、演奏者はその”曲”を1音も演奏しないのだから。

私はこの曲を生で聴いたことがない。もっとも、録音媒体でもきっかり4分33秒を”聴いた”ことはない。
『4分33秒』には演奏者が演奏する音はないが、観客がたてる音や周囲の環境音は否定しない。それこそがこの曲の作曲者John Cageの意図することである。あらゆる音は音楽であり、また逆も真なりと私は解釈する。

仮に『4分33秒』を絵画で表現するならば、Robert Rymanの『Adelphi』だろうか。真っ白に塗られた麻布の”絵画”である。彼は他にもただ白く塗っただけの作品をいくつも発表している。絵画は見るものなのか、見るものが絵画なのか、白の中に色があるのか、色のなかに白があるのか、わからなくなる。

さて、「音のない音」や「色のない色」を文学に置き換えた場合どうなるだろうか。
表紙と裏表紙だけで、中は真っ白な紙が機械的に綴られている。そんなものあるのかと思って検索してみると、ざっくりとした検索でも2作品出てくる。ひとつは『噓でしょ!!ほぼ何も書いてない本: 信じられないがほとんど白紙のページ』じゃっくのまる著、もうひとつは『自分だけの本をつくろう』二見書房である。もっとも、前者は前書きがあり、後者は本というよりノートだ。おそらくもっと時間をかけて検索すれば更に出てきそうな気がする。


しかし、本の場合、その空白が意味するところは音楽や絵画とは少し異なるように思う。仮にHermann HesseやErnest Hemingwayや川端康成やGabriel García Márquezが空白の物語を書いたとて、空白を”読む”という行為が果たして”読む”に値するのだろうか。
音や絵というものが、聴覚や視覚という感覚器を通して瞬発的に受容するものに対して、読むという行為は目(耳でもよい)を通していったん脳に格納し、意味解析をしながら自らの内観と外観とを統一する行為であり、見るや聞くという瞬発的行為とは異なる。「あ」という1文字を読んで「おお、これはすごい!」とは思わない。文学には一定の”量”が必要であり、inputとoutputの間には、少しばかり時間が必要だ。

あまり文学に精通しているわけではないが、『4分33秒』やRobert Rymanの一連の真白い作品と同様かそれに近い感覚をもたらす文学としてひとつ、『源氏物語』「雲隠」巻を挙げよう。雲隠については、本文があったかないかの説はあるようだが、もし紫式部が意図して書かなかったのであれば、視覚的瞬発力をもたらす文学として素晴らしい演出である。そのタイトルを読んだだけで、読者は何が起こったのか瞬時に理解し、そして瞬発的に寂しさが訪れる。しかし「あらゆる音は音楽であり、音楽は音である」ことや「あらゆる色は見るものであり、見るものが色」というような双方向性が「雲隠」にもあると言えるかどうかだ。
どうもその辺りが真白なだけの本が文学として認められるかどうかの鍵ではないか。

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