「わたし」というカテゴリー
この夏も教え子と関わる日々を過ごしている。
わたしに教えられることになってしまった生徒たちは、わたしのことがどれだけ好きでも、どれだけ嫌いでも、わたしに大切に育てられ、教えられることになる。わたしはいつも複雑な気持ちになる。だから、こうして学校から(生徒が)(わたしが)去った現在でも関わってくれるのは、とても嬉しい。進路や恋愛の話、家族の話、作品の話(美術科の生徒を教えていたことがある)、人間関係などをお互い、ざっくばらんに話す。これは、彼らが「生徒」であったときと変わらない。そして、わたしもその生徒の「先生」であったときと変わらない、そういう関係になっている。不思議だ。
わたしは特に「変わり者」の教師であるらしいので、教えられることになった段階から彼らの「先生」ではないかもしれない。もしかすると、「友達」と「大人」と「先生」というカテゴリーに分けたとして、その3つのカテゴリーの重なる部分に「わたし」という彼らの人生の中にはなかったカテゴリーがあるのかもしれないと最近思うようになった。だから、卒業しても、その学校の教師でなくなっても「わたし」なのだと思う。
今日は、久しぶりにスターバックスでお茶をして、近くの大きな本屋さんに寄り、受験校の過去問題集やその受験対策の問題集の下見に行ってきた。突然、わたしに「時間ある?本屋いこか!」と少々強引に、そして愉快に誘われて、下見に行くことになったので怯えていたが、話を聴いていて何やらそこに不安があると感じた。ひとりで大量の問題集と睨めっこするよりも「わたし」みたいなのがいっしょだと少しは気持ちが軽くなるかもしれない、そういうアンテナがピンと立った。まず、不安や恐怖と向き合わなくては何事も始まらない。しかし、そこに向き合うとき誰かがいて、愉快に、そして真剣に向き合ってくれる人がいたら、良いかもしれない。孤独に耐えながら、受験勉強をした高校時代の心情が、こんなところで役立つなんて考えもしなかった。
暑い中、少し歩いて、某商業施設に入ると冷風の涼しさとともに、ふわっと高級で爽やかな香りが漂っていて、少々強引に誘ってしまったけれど、「まーいいか!」という気持ちになった。大きな本屋さんで大量の本に囲まれながらお散歩をして、あれやこれやとペラペラめくってみて、お互いに聴く余裕はなく、独り言みたいな、感想みたいな言葉をペラペラと喋っていた。良さそうなのを宝探しでもしてるかのように発見して、他の教科も同じシリーズがあって、2人で「めっちゃ」喜んだ。わたしが今の学校で文法のプリントを自作しているよという話をすると、「ほしい!」と言ってくれた。うれしかった。明日からまた、涼しい部屋に独りこもって教材研究やプリント作成する時間を流れるままに過ごせると思った。