自分の価値は自分で決める
以前、「どうしても近づけないひとがいた」と書いた。(触られることと触ること)
そのことがずっと気にかかっていた。
近づけない、というのはエネルギーを皮膚で感じるような感覚だ。
それはぞわり、だったり、すーっと温度が1℃下がるような寒気だった。
あるいはそこまでいかなくても、なんとなく感じる違和感。
タントラの先生ともその話をしたこともある。
それがトラウマを癒しきれていないことからくるのか、あるいはわたし固有の「弱さ」なのか、どちらにせよわたしに問題があるのだと思っていた。
問題があるのだとしたら、克服しなくてはいけない。
だから、ずっとコンシャスタッチ のWSに誘われても出られなくて、ずっと断っていた。
「女性だけと組みたい」という特別扱いは許されそうもなかったし、トラウマがあるひと向けではない、と彼は明言していたからだ。
そんなときに出会ったのがBIPSのバイオダイナミクス・マッサージ・インテンションというWSだった。
Youtubeで見ていたTarikaさんの記事で知った。
エネルギーアタック、と講師のebba boyesenは言っていた。
彼女は、そのときの経験とそういったものから身を守る方法を教えてくれた。
他にも、ローゼンメソッドという手法ではマイナスのエネルギーが入ってくるという考え方がないということを他の参加者の方から聞いて知った。
こうして、わたしは同じことでも色々な方法で色々な人から学ばなくてはならないと思うようになった。
わたしは、自分を変えなくてはいけないと思っていたし、弱さは克服すべきだとかトラウマは癒すべきだと思っていた。
けれど、弱さはただの弱さではなく、トラウマは単なる傷ではなかった。
マッサージをする間、弱さは繊細さとして武器に変わった。
トラウマの痛みは相手の痛みと共鳴し、相手を知る道しるべになった。
知らないものは見えない。
強いひとには本人の発する強い光が覆い隠してしまうであろう何かが、弱いわたしには見えた。
強さと弱さに優劣はなく、単なる特性だった。
強さが足りないのではなく、弱さを持っているのだ。
弱さと繊細さは弱点から、個性に裏返った。
わたしの価値になった。
そう思ったとき、誰かの作った価値観の中で生きている自分に気づいた。
好きな人の価値観が重なった世界(ベン図の重なった部分)から出られなくなって、「普通」のひとのど真ん中を歩きたくてたまらなくなるのだ。
わたしにとって、マッサージはわたしの見えなかった一面を映してくれる鏡になった。
けれど、同時にマッサージは怖くて怖くてたまらないことも確かなのだ。
マッサージをしている間、わたしは掌の感触に揺蕩い、接面にどこまでも近づいていく。
その瞬間、エネルギーのわたしは丸裸に近く、無防備で、触れている部分をどうしようもなく愛してしまっている。
どうしても想像してしまう。
たぶん、それが邪悪な何かだったとしたら、わたしに溶けてしまうだろう。
弱さと繊細さは、わたしを守ってくれるものでもあるのだ。
いや、今まで守ってきてくれたのだ。
コンシャスタッチのとき、「相手の境界線を配慮する」ようにと注意があった。けれど、その境界線が見えないひとにその注意は効果があるのか。
わたしのいう「近づけないひと」とは、その境界線が見えないひとなのに。
その境界線を踏み越えてこないで、とわたしが言ったところでそれは通じるものなのか。
今まで、そういうひとにも対応できないといけない、と思っていた。
でも、一緒にコンシャスタッチに参加した女性は「苦手なひとがいてもいい」と言ってくれた。
たぶん1週間前までは素直に受け取れなかったその言葉が、今すーっと入ってくるのを感じる。
わたしは、自分の価値を自分で決める。
誰かの意に沿わなくてもいい。
誰かが決めた価値観の中で生きるのをやめる。
だから、たぶん「近づけないひと」とは今後も折り合えないけれど、それでいい。
タントラの先生にも「折り合わなくていいことにした」と言おうと思う。
けれど、やはりマッサージを受けるのは苦手で、その理由もわかってしまったような気がする。
やっぱり、愛を受け取るのが苦手だからだ。
そのとき、こんなわたしを愛してくれるひとなんてもう現れないんじゃないか、と思った。
けれど、それを寂しいとか孤独だとかはなぜか思わない。
ただ、一人だと思った。
続きます。
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