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SFの原体験と「ソラリス」のこと

「一体きみは何を望んでいるのだろう? ここの変形性原形質プラズマの何百億という構成分子がわれわれを攻撃するためにどんな計画を立てているかをぼくに話させたいのかい? ぼくの考えでは、そんな計画を全然ないと思うよ」

「ソラリスの陽のもとに」(ハヤカワ文庫、p120)

前回に続き「ソラリス」について、あらすじから紹介してみます。

* * *
毎年数百もの星が発見されるなか、ソラリスは異常な軌道を保ち続ける惑星として注目されました。

理論上ありえない動きをするこの星に、研究者たちは調査に乗り込んだのですが、分かったのは、ソラリスの海全体が、ひとつの有機物質だということだけでした。以来100年余り、数えきれない研究と考察が積み上げられ、そして一切が徒労に終わりました。

主人公のクリスは、ソラリス上空のステーションに行き、奇妙な光景に出くわします。いるはずのない、乗組員以外の人の気配がする。先に来ていたスナウトとサルトリウスの様子がおかしい。そして困惑のなかクリスが眠りから目覚めたとき、そばには10年前に亡くなった恋人ハリーが目の前にいたのです。

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スタニスワフ・レムの小説「ソラリス」は、2度日本語訳され、2度映画化されました。もっとも有名なのは、アンドレイ・タルコフスキーによる1972年の映画でしょう。ただ私にとっての初めては、スティーブン・ソダーバーグによる2002年の映画でした。
(ちなみに、レムは初めの映画化でタルコフスキーと口論になって、映画化に対してすっかり失望してしまったようです)

未知の存在とのファースト・コンタクトは、数多くのSF作品のテーマになってきました。侵略者や神のように超越的なキャラクターを未知の存在に与えたり、知的生命体との交流というドラマが描かれることもありました。

しかし「ソラリス」の場合は、そのどれにも当てはまりません。

たしかに巨大な赤ん坊や人工物など、意味ありげなものがソラリスの海から作り出されもします。でも、ソラリスがすることといえば、言わばそういう「擬態」だけです。しかも悪いことに、人によって目撃するものが同じでさえなく、まちまちです。パターン化しようにも、結局まったく理解できない。

研究者たちは、ソラリスとの交流どころか、ソラリスに意志はあるのか、われわれ人類は何を試されているのか、と足下がぐらついてくるのですが、乗組員たちはもっと難しい局面に立たされます。

それが、乗組員の記憶の中の人物がステーションに現れるという事態でした。主人公クリスには死んだ恋人が現れましたが、他の乗組員は、直視しがたい記憶、葬り去った記憶のなかの「誰か」につきまとわれていたようです。

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現れたのが亡くなった恋人だけだったらロマンティックなのですが、そんな話とは無縁の人物が目の前に現れるとなると、サイコサスペンスめいてきます。

では、そのどちらも起きるとしたら…?
たぶんここあたりが、映画化や作品の読解にあたっての分岐点だったのだと思います。

タルコフスキーは、乗組員たちの記憶が奥底に秘められていることと、彼らが故郷から遠く離れた場所に来てしまったことを重ね合わせて「郷愁」というキーワードでつなげたようです。

あるいは私の知人は、死んだ恋人がふたたび目の前からいなくなる、という結末に注目して「他者が本当に『死ぬ』とはどういうことか」を考えていました。

では、作者のレムはどう捉えていたのでしょう。新訳を手がけた沼野充義氏の解説によれば「異質な他者に対する違和感を保持しながら、それでもなお他者と向き合おうとしている」といいます。

目の前のできごとが自分たちの理解をやすやすと裏切ることをよく分かって、思いつく解釈や結末を捨てて向き合おうとしているのです。ある意味でそうとうに骨太なスタンスです。

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思えば、これがいわばSFの原体験で、刷り込み体験だったのかもしれません。
人が理解できることなんて高が知れている” ――このスタンスは、新訳が出ていなかった当時でも、レムの他の作品「完全な真空」「虚数」から感じていたことです。

ちょうどこの時期、私は並行して「ジェンダーの社会学」という社会学の論集を読んでいました。上野千鶴子氏を筆頭にした一連の論考は、価値観がひっくり返るほどの衝撃を受けたものです。

この本では “当たり前と思っていた価値観も、誰かによって作られたものに過ぎない” という見方をはっきりと教えられました。
それは今思えば、レム作品に感じたことを後押しし、それからのSFを始めとした読書に対する姿勢を形作ってくれるものでもあったのかもしれません。

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