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書に向かうとは、「時間」に向き合うことかもしれない

自分の書く字は、日によって全然違う。そう思うことはありませんか。
私は夢日記をつけていた頃、目覚めた直後に書いた字があまりに読みにくかったのを思い出します。

そうでなくても、書き文字の形はそのときどきで姿を変えるものです。
いつもと変わらない日でも、書く文字がとても弱々しかったり、ときに堂々としていたり、我ながら満足するような流麗さだったり。自分では、それをうまくコントロールすることはできません。

また、じっさいにお手本を置いてみて、筆跡そのままに書くのはとても難しいことだ、と感じたことがあります。いや、お手本を脇において書く感じは「こわい」に近かったかもしれない…もう、ずいぶん前の話です。

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もちろん、文字は読めればいいという考え方もあります。汚く書いたって、読めることが大事なのだ、と。もちろん、実用的な観点からはまったく正しいでしょう。

ではあらためて「書」とは何でしょうか。“読める” 以上に書き文字に追求されるもの、それは、おおざっぱに言えば「美しさ」かもしれません。ただし、ここでいう美しさには色々な側面があります。

前回につづき、『小学生の書道講座』の4巻「心から書こう」から引用してみます。これは、ちょすいりょうの書を紹介したものです。

細い線です。細いけれども、この線はぷっつり切れるような弱い線ではありません。銅の線よりもっとねばり強い、どこまでものびる金の線のようです。形も、おさえつけてもぺシャンとつぶれてしまわない、てをはなすと元にかえるような弾力性があります。しかもずっと坐っているのでなくて、動いている形です。それでいて静かです。

続いて、たちばなのはやなりの書を紹介した文章です。

これはまた、すっかり変わった気分でしょう。前のページの、ちょすいりょうの書の軽さにくらべて、ずっしりとした重さです。前のが女のような感じであったのに大して、じっと坐って、考え事をしているようです。少しぐらいな地震がきても、おどろいたり、あわてたりしない落ついたものです。

時代によって人によって、「美しさ」は変わっていきます。
ふだんの生活で書くことはない、こういう文字に向き合うとは、どんな体験なのでしょうか。

私は、そこには「時間」が大きく関わっているのではないかと思います。

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先日、神社の境内で並んで待っていることがありました。
先客がなかなか用事を済ませないので、しかたなしに、聳え立つ杉の木立をながめていました。

朝日が、しだいにふかく差し入ってきます。時間が経つにつれ、自分の注意の向かう先が変わっていきます。飽きるのですね。そうして立札や岩など、ほかの景色が目に入って「はじめて」それに気付くのです。

この文章のことを考えていたこともあり、もしかするとこれは「鑑賞」や「理解」と同じなのかもしれない、と思いました。

おそらく私は、それまで「理解」とは知能のなせるわざだと思う部分が大きかったのでしょう。これは例えば解像度というものに近いです。

しかし、今回の神社での体験は、それと明らかに違う、時間をかけて初めて深まっていくものでした。とりわけ経験の浅い者にとっては、その入口に立たなければ分からないもので、その入口を入口と認識するにも、やはり時間が必要なのかもしれません。

かつて、“寿司職人はもっと簡単に技術を身に付けられる” と言い切った人もいた気がしますが、私たちは、それほど簡単に「知る」の入口に立つことはできないのではないでしょうか。

つづく


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