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肥前国風土記メモ

古代五風土記の一書、現在の佐賀県・長崎県に当たる肥前国風土記を読み、印象に残った箇所のメモ。
今回も現代語訳に近くなってしまったが……まあとりあえず。

●総記
 ・崇神天皇の治世、肥後国益城郡朝来名の峰にいた土蜘蛛・打猴(うちさる)、頸猴が軍勢を率いて朝廷に従わなかった
 ・朝廷は肥君らの祖・健緒組(たけをくみ)を派遣し征伐
 ・健緒組がそのついでに国を巡検、八代郡白髪山に泊まった
 ・その晩、虚空に自然に燃える火があり、段々下りてきて、白髪山に届いて燃えた
 ・不思議に思った健緒組は戦果とともに朝廷に報告
 ・天皇は聞いたことのない話として、その国を火の国と呼べ、と命ず
 ・健緒組には火の君の姓を与えてこの国を治めさせたので、火の国という、後に肥前と肥後に分かれた
 ・景行天皇がクマソを討伐して、九州を巡検した際、葦北の火流浦(ひながれうら、現在の日奈久)から船出して、火の国へ行幸した
 ・海を渡るあいだに夜になり、船を着ける場所が分からなくなった
 ・すると、突然火の光が現れ、はるか前方に現れた
 ・天皇の命で船頭は火の方に進み、岸に着いた
 ・天皇は、火の燃えた地や、火の正体について尋ねた
 ・土地の者が言うには、火の国の八代郡火邑(現在の氷川町宮原)、ただし何者の火かは不明、と
 ・天皇はそれを聞き、これは人の火ではない、火の国と呼ばれる訳を知った、と

●基肆(き)の郡
 ・景行天皇、筑紫国御井(みゐ)郡高羅(こうら)の仮宮に滞在し巡検
 ・その時、霧が基肆の山を覆い、天皇が「その国は霧の国と呼べ」と命ず
 ・後世基肆の国と呼び、今は郡の名となる

 〇長岡の神の社
  ・景行天皇、酒殿の泉のほとりで土地の神に神饌を供えた時、鎧が光輝く
  ・神意を占わせると、卜部の殖坂(ゑさか)は「土地の神が鎧を欲しがっている」と
  ・天皇は「では社に奉納する、永き世の神宝となるだろう」と
  ・それで永世の社と命名、後世長岡の社という(鳥栖市の永世神社)
  ・鎧の紐は朽ちてしまったが鎧と兜の板は残っている

 〇酒殿の泉
  ・九月になると段々白い色になり、酸っぱくて臭くで飲めなくなる
  ・正月になると、また清く冷たくなって飲めるようになる(鳥栖市酒井、重田の溜池か)

 〇姫社(ひめこそ)の郷
  ・山道川(筑後川の支流の山下川)の西に荒ぶる神があり、道行く人の半数を殺した
  ・祟りの理由を占うと「筑前国宗像郡の珂是古(カゼコ)に私の社を祭らせよ、もし私の願いに叶えば荒ぶる心を起こすまい」
  ・なので珂是古を探して祭らせた
  ・珂是古は幡を捧げて「本当に私の祭祀を欲するなら、風の吹くままに飛んで行き、欲する神のあたりに落ちよ」と祈る
  ・幡は御原郡の姫社の杜(小郡市大崎の岩船神社か)に落ち、再び還り飛んで来て、山道川のほとりの田村に落ちた
  ・そうして珂是古は自然と神のいます場所を知った
  ・珂是古はその晩、機織の道具が自分の体を押さえて目を覚ませる夢を見た
  ・そうして織女神だと知り、社を建てて祀る(鳥栖市姫方町の姫古曽神社)
  ・以来、往来の人は殺されず、その為姫社といい、郷の名になった
  ※風土記に多い交通妨害の神

●養父の郡
 ・景行天皇巡検時、この郡の民がこぞって参集し、天皇の犬が吠えた
 ・産婦が犬を見つめると吠えるのを止めた
 ・だから犬の声「止む」の国といい、訛って養父の郡という

 〇鳥樔(とす)の郷
  ・応神天皇の治世、鳥屋(とや 鳥小屋のこと)をこの郷に作り、様々な鳥を集めて飼い馴らし、朝廷に献上した
  ・だから鳥屋の郷といい、後に鳥樔の郷といった

 〇曰理(わたり)の郷
  ・昔、筑後川の浅瀬は、大変広く、人も獣も渡るのが難しかった
  ・景行天皇巡検時、筑後国生葉郡(後の浮羽郡)の山を船山とし、高羅山(高良山)を梶山として、船を造り備えて人や獣を渡した
  ・だから曰理の郷という

 〇狭山の郷
  ・景行天皇行幸時、この山の仮宮から、周囲をはるかに眺め渡した
  ・その時四方がさやけく(はっきり)見えた。
  ・だから、分明(さやけ)の村といい、訛って狭山の郷という

●三根(みね)の郡
 ・元々神埼郡だったが、海部の直鳥(但馬海直の子孫、神埼市に遺称地あり)が願い出て、神埼郡より分置し、神埼郡の三根の名にちなみ、郡の名とした(神埼市千代田町直鳥が遺称地)

 〇物部の郷
  ・郷に神社があり、物部経津主神を祀る
  ・推古天皇の治世、来目皇子(用明天皇皇子)を将軍として新羅を征伐させた
  ・皇子は勅命に従って筑紫に来て、物部の若宮部(物部配下の神祭行う部民)を派遣し、神社を祀ったので、物部の郷という

 〇漢部(あやべ)の郷
  ・来目の皇子の新羅征伐時、忍海の漢人(渡来新羅人の子孫)を率いてここに住み、武器を作らせたので、漢部の郷という(みやき町原古賀綾部が遺称地)

 〇米多(めた)の郷
  ・郷に米多井(めたゐ)という井戸(あるいは泉や堰)があり、水は塩辛い
  ・昔、井の底に海藻が生えていた
  ・景行天皇巡検時、この海藻を見て、海藻(め)立つ井と名付けた
  ・今、訛って米多井といい、郷の名になっている

●神埼(かむざき)の郡
 ・昔、この郡に荒ぶる神がいて、往来する人が沢山殺された
 ・景行天皇巡検時、この神は心和らぎ静かになり、以来、災禍はなくなった
 ・だから神埼の郡とという

 〇三根の郷
  ・川があり、北の山から流れ出て南に流れて海に入る(城原川)
  ・景行天皇巡検時、その川の河口を経由し、この村に泊まる
  ・天皇「昨晩は大変安らかに眠れたので、この村は天皇の御寐(みね)安き村と言うが良い」
  ・だから御寐という。今は字を改めた

 〇船帆(ふなほ)の郷
  ・景行天皇巡検時、諸々の氏人達が、こぞって船に乗り、帆を上げて三根川の津に集って、天皇のお供をしたので、船帆の郷という
  ・天皇の船の碇が四つ現存している
  ・一つは高さ六尺(約180cm)、直径五尺(約150cm)、一つは高さ八尺(約240cm)、直径五尺、子のない婦人がこの二つの石の近くで祈れば必ず子を授かる
  ・一つは高さ四尺(約120cm)、直径五尺、一つは高さ三尺(約90cm)、直径四尺、日照りの時にこの二つの石の近くで雨乞いして祈れば必ず雨が降る

 〇蒲田(かまだ)の郷
  ・景行天皇巡検時、この郷に泊まる
  ・土地の神に食事を供えた時、蝿が多く、大変うるさかった
  ・天皇「蝿の声が大変かまし(やかましい)」
  ・だから「かま」の郷といい、訛って蒲田の郷になった

 〇琴木(ことき)の岡
  ・高さ二丈(約6m)、周囲五十丈(約150m)
  ・元々平原で丘はなかったが、景行天皇が「この地形には絶対に丘があるべき」と言い、群臣達に命じて丘を作らせた
  ・丘を作り終わる時に、丘に登って宴を催した
  ・宴もたけなわとなった後、琴を立てると、高さ五丈、周囲三丈の樟になった、だから琴木の岡という

 〇宮処(みやこ)の郷
  ・景行天皇巡検時、この村に仮宮を作ったので、宮処の郷という

●佐嘉(さか)の郡
 ・昔、樟の木が一本この村に生えており、幹と枝が大変高く、沢山の小枝と葉が茂っていた
 ・朝日で出来たこの木の影は杵島郡の蒲川の山を覆い、夕日で出来た影はは養父郡の草横山を覆った
 ・日本武尊巡検時、樟の茂り栄えるのを見て「この国は栄(さか)の国と言うがいい」
 ・だから栄の郡といい、後に佐嘉の郡と名付けた
 ・郡名由来には別の説もある
 ・郡の西に佐嘉川(嘉瀬川)が流れており、水源は郡の北の山にあり南に流れて海に入る
 ・この川の川上に荒ぶる神がおり、往来の人の半分を生かし半分を殺した
 ・そこで県主らの祖・大荒田(おおあらた)は、占いをした
 ・その時、土蜘蛛の大山田女(おおやまだめ)と狭山田女(さやまだめ)がいた
 ・大山田女・狭山田女「下田の村の土を取って、人形と馬形を作って、この神を祀れば、必ず心和らぐでしょう」
 ・大荒田がその言葉に従ってこの神を祀ると、これを受けて神はついに心和らいだ
 ・大荒田「彼女達は実に賢い。だから賢女(さかしめ)を以って国の名としたい」
 ・だから賢女の郡といい、訛って佐嘉の郡という
 ・この川上に石神があり、名を世田姫(よたひめ)という(與止日女神社)
 ・海の神である鰐が、毎年流れに逆らって潜って上って、この神のところに来る
 ・その時、海底の小魚が沢山従う
 ・人がその魚畏怖すれば災いがなく、捕って食べれば死ぬことがある
 ・この魚達は、二、三日留まって、また海へ還る

「世田姫」とされる石神
(肥前大和巨石パーク)
與止日女神社の上宮とされている

●小城(をき)の郡
 ・昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を作って隠れ、天皇に従わなかった
 ・日本武尊巡検時、ことごとく罰して討った
 ・だから小城の郡という

●松浦(まつら)の郡
 ・昔、神功皇后が新羅を征伐しようとこの郡にやって来て、玉嶋の小川(唐津市東部の玉島川)のほとりで土地の神に食事を供えた
 ・皇后、針を曲げて釣針とし、米粒を餌とし、裳の糸を釣糸として、川の中の石に登って針を捧げて神意を問う
 ・皇后「私は新羅を征伐してその財宝を求めたいと思っている、それが成功して凱旋出来るなら、鮎よ、私の釣針を飲め」
 ・やがて針を投げ、つかの間のうちに、その通り魚を得る
 ・皇后「大変希見(めづら)しいものだ」
 ・だから希見の国といい、訛って松浦の郡という
 ・その為、この国の婦女は、初夏四月に、常に針で鮎を釣るが、男は釣っても獲られない

 〇鏡の渡(わたり)
  ・宣化天皇の治世、大伴狭手彦連を派遣して任那の国を鎮め、百済の国を救わしめた
  ・大伴狭手彦が天皇の命によりやって来て、この村に着き、篠原の村の弟日女子(おとひめこ、年若い有力者の娘を意味する一般名詞)と結婚
  ・弟日女子は日下部の君らの祖で、絶世の美女だった
  ・別れる日、鏡を彼女に与えた
  ・彼女は悲しみの涙をこらえて栗川(松浦川)を渡る際、与えられた鏡が、紐が切れて川に沈んだ
  ・だから鏡の渡という

 〇褶振(ひれふり)の峰
  ・大伴狭手彦が船出して任那に渡る際、弟日姫子がここに登り、褶を振って神を招き寄せたので、褶振の峰という
  ・弟日姫子と大伴狭手彦が別れた五日後、夜毎にやって来て彼女ともに寝て、夜が明けると早朝に帰る人が現れた
  ・その人の容貌は狭手彦に似ていた
  ・彼女はそれを不思議に思って黙っていることが出来なかった
  ・そこで秘かに紡いだ麻糸をその人の裾に繋ぎ、麻糸をたどって尋ねると、この峰の沼のほとりに着いた
  ・そこには寝ている蛇がおり、体は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼のみぎわに臥していた
  ・蛇はたちまち人になって「篠原の 弟姫の子そ さひとゆも 率寝てむしたや 家にくださむ」と言った(篠原の弟姫、ただ一夜でも一緒に寝たら、家に帰そう)
  ・その時、弟日姫子の侍女が、走って親族に告げた為、親族は諸々の人を集めて登った
  ・すると、そこには蛇も弟日姫子もいなかった
  ・沼の底を見ると、人の屍だけがあった
  ・それぞれが皆、弟日姫子の亡骸と言って、この峰の南に行き、墓を造ってしかるべき場所に葬った、その墓は今もある

 〇賀周(かす)の郷
  ・昔、この里に、海松橿媛(みるかしひめ)という名の土蜘蛛がいた
  ・景行天皇巡検時、従者の大屋田子(おおやたこ、日下部君らの祖)を派遣して罰して滅ぼさせた
  ・その時霞で四方が覆われ、様子が分からなかった
  ・だから霞の里という、訛って賀周の里となった

 〇逢鹿(あふか)の駅
  ・昔、神功皇后が、新羅を征伐しようと行幸した時、この道で鹿に遭遇したので、遇鹿(あふか)の駅と名付けた
  ・駅の東の海は、アワビ、サザエ、鯛、海藻、海松などが取れる

 〇登望(とも)の駅
  ・昔、神功皇后がここに来て、留まって男装したところ、着用していた鞆(矢を射る際に弓の反動による衝撃を防ぐ左腕に着ける武具)がこの村に落ちたので、鞆の駅と名付けた
  ・駅の東西の海で、アワビ、サザエ、鯛、様々な魚、海藻、海松などが取れる

 〇大家の嶋
  ・昔、景行天皇巡検時、この村に大身(おおみ)という土蜘蛛がいた
  ・常に天皇の命を拒み服従しなかった
  ・天皇は勅命により罰して滅ぼした
  ・それ以来、漁民達がこの島に来て、家を作って住んでいるので、大家の郷という
  ・郷の南に岩屋があり、鍾乳石や木蘭がある
  ・周囲の海は、アワビ、サザエ、鯛、様々な魚、海藻、海松が沢山ある
  (的山大島、馬渡島説あり)

 〇値嘉の郷
  ・郡の西南の海中にある(小値賀島が遺称地)
  ・景行天皇巡検時、志式嶋(平戸島南部)の仮宮にいて、西の海を見る
  ・海中に島があり、煙が多数立ち上っていた
  ・従者の阿曇連百足を派遣して視察させた
  ・島は八十余りあり、その中の二つの島には島ごとに人が住んでいた
  ・第一の島は小近(をちか)で、土蜘蛛の大耳(おほみみ)が住み、第二の島は大近(おほちか)で、土蜘蛛の垂耳(たりみみ)が住んでいた
  ・その他の島には、人がいなかった
  ・百足は大耳達を捕らえて報告し、天皇は罰して殺させようとした
  ・その時、大耳達は頭を下げて謝罪し「我々の罪はまことに極刑に値します、一万回殺されても贖えません、が、もし温情によって生かして下さるなら、食べ物を作って献上します」と申し述べた
  ・そしてただちに木の皮を取り、様々なアワビ料理の見本を作って献上した
  ・天皇は温情によって彼らを許して釈放した
  ・天皇「この島は遠いが、まるで近いように見えるので、近嶋(ちかしま)と言うがいい」
  ・だから値嘉という
  ・島にはビロウ、木蘭、クチナシ、イタビ、ツヅラ、ナヨタケ、篠、木綿、蓮、ヒユがある
  ・海にはアワビ、サザエ、鯛、鯖、様々な魚、海藻、海松、様々な海藻がある
  ・漁民ば牛馬を沢山所有している
  ・百余りの近い島々があり、また別に八十余りの近い島々がある
  ・西に船を停泊させる場所が二つある
  ・一つは相子田(あいこた)の停(とまり)といい、二十余りの船が停泊可能(中通島の相河(あいこ))
  ・もう一つは川原の浦といい、十余りの船が停泊可能(福江島の川原)
  ・遣唐使は、この停を出発し、川原浦の西の埼である美弥良久(みねらく、福江島三井楽)の埼に至り、さらにここから出発して西を目指して海を渡る
  ・この島の漁民は、容貌は隼人に似て、常に馬上から矢を射るのを好み、その言葉は世間一般の人々と異なる

●杵嶋(きしま)の郡
 ・景行天皇巡幸時、この郡の磐田杵(いはたき)の村に船を停泊させた
 ・カシ(船を繋留する杭)の穴から、冷水が自然と湧いた
 ・船が停泊したところは島となった
 ・天皇はそれを見て、群臣らに「この郡はカシ島の郡というが良い」と言った
 ・今は訛って杵嶋の郡という
 ・郡役所の西に温泉が湧いている(武雄温泉)
 ・岩の崖が険しく、人跡稀である(武雄温泉の側の蓬莱山)

 〇嬢子山(をみなやま)
  ・郡の東方にある
  ・景行天皇巡幸時、土蜘蛛の八十女人(やそおみな)が、この山の山頂にいた
  ・常に皇命に逆らい、服従しなかった
  ・そこで、兵を派遣して不意を襲い滅ぼさせた
  ・だから嬢子山という

●藤津(ふぢつ)の郡
 ・日本武尊行幸時、この津(港)に着いた
 ・日が西の山に没し、船を停泊させた
 ・翌朝、遊覧し、船の艫綱を大きな藤に繋げた
 ・だから藤津の郡という

 〇能美(のみ)の郷
  ・郡の東にある
  ・景行天皇行幸時、この里に三人の土蜘蛛がいた
  ・兄の名は大白(おほしろ)、次の名は中白(なかしろ)、弟の名は少白(をしろ)
  ・彼らは砦を造って隠れ住み、天皇に従わなかった
  ・そこで、従者である紀の直らの祖・穉日子(わかひこ)を派遣し、罰して滅ぼそうとした
  ・その時、大白達三人は、ただ叩頭(のみ、頭を地にこすりつけること)、己の罪を述べ、共に命乞いをした
  ・だから能美の郷という

 〇託羅(たら)の郷
  ・郡の南にあり、海に臨む
  ・景行天皇行幸時、この郷に着いて、地勢を見ると、海の物が豊かだった
  ・天皇「地勢を見るに、平地は少ないが、食物は豊かで満ち足りているから、豊足(たらひ)の村というが良い」
  ・今は訛って託羅の郷という

 〇塩田川
  ・郡の北にある
  ・郡の西南にある託羅の峰より流れ出て、東へ流れてた海に注ぐ
  ・潮が満ちる時、逆流する
  ・その勢いは激しく、水位が高くなる
  ・だから潮高満川(しほたかみつがは)という
  ・今は訛って塩田川という
  ・水源に渕があり、深さは二丈(約6m)ばかり
  ・石壁は峻険で、周囲は垣根のようで、鮎が沢山いる
  ・東のほとりに温泉があり、よく人の病を癒す(嬉野温泉)

●彼杵(そのき)の郡
  ・景行天皇がクマソ討伐から凱旋した時、天皇が豊前国の宇佐の海岸の仮宮にいた
  ・従者である神代(かみしろ)の直をこの郡の速来の村に派遣し、土蜘蛛を捕らえさせた
  ・その時、速来津姫という人物が現れた
  ・速来津姫「健津三間(たけつみま)という名の私の弟が、健村の里に住んでいる
  ・彼は石上(いそのかみ)の木蓮子玉(いたびだま)という美しい玉を持っており、これを愛でて厳重に保管し、他人に見せない」
  ・神代の直が尋ね求めると、健津三間は山を越えて逃げ、郡北部の落石(おちいし)の岑(みね)へ走った
  ・神代の直は追いついて捕らえ、真偽を問い詰めた
  ・健津三間「確かに二種類の玉があり、一つは石上の神の木蓮子玉といい、もう一つは白珠(しらたま)という
  ・シュク・フの玉(山海経に登場)に比較される程の玉だが、願はくは献上させて欲しい」
  ・さらに速来津姫が言うには「箆簗(のやな)という人物がおり、川岸の村に住む
  ・この人も美しい玉を持っており、愛しむこと極まりなく、命令に従うことはないだろう」
  ・神代の直は箆簗に迫って捕らえて問うた
  ・箆簗「確かに持っているので、献上して、敢えて惜しむようなことはしない」
  ・神代の直は還って来て三種の玉を献上した
  ・天皇「この国は具足玉(そなひだま)の国というが良い」
  ・今は訛って彼杵の郡という
  ※大村湾は真珠の産地

 〇浮穴(うきあな)の郷
  ・郡北部にある
  ・景行天皇が宇佐の海岸の仮宮にいる時、神代の直に言った
  ・天皇「朕は諸国を巡ってすっかり平定して来たが、まだ我が統治を受け入れない不審な者共はいるか」
  ・神代の直「その、煙の立っている村は、まだ統治を受け入れいません」
  ・神代の直をこの村に派遣すると浮穴沫媛(うきあなわひめ)という土蜘蛛がいた
  ・皇命に従わず大変無礼だったので誅殺した
  ・だから浮穴の郷という

 〇周賀(すか)の郷
  ・郡の西南にある
  ・神功皇后新羅征伐時、船をこの郷の東北の海に繋ぐ
  ・すると舳先と艫を繋ぐ杭が磯になった
  ・磯は高さ二十丈余り(約60m)、周囲十丈余り(約30m)、両方の磯の距離は十町余り(約109m)で、高くて険しく、草木が生えない
  ・従者の船は漂い沈んだ
  ・その時、鬱比表麻呂(うつひおまろ)という土蜘蛛がおり、その船を救った
  ・だから救の郷といい、訛って周賀の郷という

 〇速来の門(はやきのと)
  ・郡の西北にある
  ・この瀬戸に潮が来る様は、東に潮が落ちれば、西に湧き登り、湧く音は雷の音と同じ
  ・だから速来の門という(早岐瀬戸)
  ・また、勢い盛んに茂る木があり、根は地に着くが、枝先は海に沈んでいる
  ・海藻が早くに伸びるので、朝廷に献上している

●高来(たかく)の郡
  ・景行天皇が肥後国玉名郡(たまきなのこおり)長渚浜(ながすはま)の仮宮にいて、この郡の山を見た
  ・天皇「まるで離島のようだが、陸続きの山なのか、離島なのか、知りたいと思う」
  ・神大野宿禰(みわおおののすくね)がそれを確かめる為に派遣され、この郡に入る
  ・そこに人がいて迎えに来て「私は高来津座(たかくつくら)という名の、この山の神
  ・天皇の使いがいらっしゃると聞き、お迎えに上がりました」
  ・だから高来の郡という

〇土歯(ひじは)の池
  ・俗に崖のことをヒジハという、郡の西北にある
  ・池の東のほとりに、高さ百丈余り(約300m)、長さ三百丈余り(約900m)の崖がある
  ・西の海の波が、常に洗いすすぐ
  ・土地の人の言葉により、土歯の池という
  ・池の堤は、長さ六百丈余り(約1.8km)、広さ五十丈余り(約150m)、高さ二丈余り(約6m)、池の内側は縦横二十町余り(約218m)
  ・潮が来たら、常に堤を越えて突き入ってくる
  ・蓮や菱が沢山生えており、秋の七月、八月(旧暦)に、蓮の根が大変甘いが、季秋(晩秋)の九月になると香りも味も変わり、用いるのに適さない。

〇峰の湯の泉
  ・郡の南方にある
  ・この湯は郡南方の高来の峰(雲仙岳)の西南の峰より出でて、東に流れる
  ・湯量豊富で流れる勢いは非常に強く、熱さは他の湯と異なる
  ・ただ、冷たい水と混ぜると湯浴み出来るようになる
  ・その味は酸っぱく、硫黄、白土(石灰)、和松(にぎまつ、松の一種) を産する
  ・和松の葉は細くて実があり、大きさは小豆のようで、食べることが出来る

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全体的な印象
・往来の人を殺す神が目立ち、女神との関連性が高い
・特殊な色や味の泉、温泉の記述が目立つ
・景行天皇巡幸の話がかなりを占める
・神功皇后の登場も多い
・日本武尊も少し登場する
・物部や大伴など、古代の大族、軍事氏族も登場する
・土蜘蛛討伐の話が多い
・功績を称えられる土蜘蛛の話もある
・土蜘蛛含め土着の女性首長が多い
・離島の記述が多い、離島に土蜘蛛がいる
・船に関する話が多い
・任那や遣唐使など、海外渡航に関する話がある
・世間一般とは風習や言葉の違う民の存在
・有明海や大村湾らしい、水流や潮位の変動が激しい記述がある
・全体的に、日本の西端で、半島・大陸に近い為、国際的事情や緊張感が感じられる
・干満差の激しい内海、数多くの離島という特殊な地理的条件に関する記述も目立つ

参考文献:小学館 新編 日本古典文学全集5・風土記
詳細は参考文献参照

ヘッダー画像は道の駅厳木に立つ巨大な松浦佐用姫像

拙サイト邪神大神宮にて、肥前国風土記の土蜘蛛登場地を取材

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