空白の学校を歩く:SCがコロナ休校で考えたこと
コロナ禍の学校
2020年の春。突然、学校が空っぽになった。
新型コロナウィルス感染拡大の影響で、政府がすべての学校に休校要請を出した。
私の働く中学校も、あわただしく授業や行事を中止し生徒たちは学校へ来られなくなってしまった。
子どものための学校なのに、子どもたちがいない。
学校の中は大混乱。
先生たちは連絡や後始末に右往左往している。
目前だった卒業式や謝恩会も中止。
中3の生徒たちは別れを惜しむこともできないまま、学校を去っていった。
学校はしきたりや行事を大切にする。
入学式、遠足、運動会、修学旅行や合唱コンクール、そして卒業式。
いろいろな行事ごとがあって、「みんな」が参加することになっている。
みんなですること、みんなでいることが大切なこととされている。
しかしこの年の春は学校の活動はすべてなくなった。
みんな、学校に来られなくなった。
みんながはじめて体験する「学校の空白」だった。
私もまた困り果てた。
カウンセラーは、人と会って話を聞くのが役目。
誰もいない学校では、実に心細い。
空っぽの学校を歩く
4月になっても学校は空っぽなままだった。
新入生が入ってきたもののほとんど授業はできず、校舎は閑散としていた。
所在なく廊下を歩く。
ふだんだったら、生徒たちの声がひびいているのに、しんと静まっている。
異空間に迷い込んだようだった。
まっすぐに見渡せる廊下を異様に長く感じた。端から端まで見渡せる。
どこにも隠れる場所はない。
一人になりたいときに身をよせる場所はない。
ここはそういうつくりの建物なのだ。
教室に入る。がらんとして窓からの風で白いカーテンがなびいている。
四角い部屋、四角い黒板、四角い机がびっしりと並ぶ。
四角だけで成り立つ無機的な場だ。
いつもだったら、ここに40人の生徒たちが座っている。
固くて小さな机といすで、ずっと過ごさなければならない。
かなりしんどくて苦痛なことだと思う。
この空間に居ることがつらくなって、学校に来られなくなってしまった子どもたちのことを思う。
学校が空っぽになった今、彼らはどう過ごしているのか?
ある不登校の少年
さいわい、保護者との面談はできるようになったので、不登校のお母さんのカウンセリングは再開することにした。
家でのようすを聞いてみた。
「最近、笑顔がふえてきました・・」
半年学校に来られないままの男子生徒。
真面目で、休んでいることを気に病んで、落ち込んでいらだちを見せるようになった。
お母さんもとても困っていた。
その彼はコロナ休校になってから気分が安定してきたという。
「笑顔が増えて、朝もじぶんから起きるようになりました。」
「どうしたの?って聞いたら、『みんなが学校に行ってないんでしょう?』って言うんです。」
「自分だけじゃないって思ったら、すごく楽になったみたいです。」
頭痛や腹痛吐き気などに悩まされ、必死の思いで登校しても保健室に1時間いるのが限界だった。
そんな彼は、コロナ禍の今、家でおだやかに過ごせている。
彼の心と体を縛っていた「学校」とはなんだったんだろう?
学校の空白から考える
その後学校は少しずつ再開し、いつしか感染者が多いままでも、また「みんな」がいる場所に戻ってしまった。
ただ、学校の空白はいろいろなものを浮かび上がらせた。
「みんなが同じように学校へ来て、同じ教室で、同じ勉強や行動をする」
これが学校だった。
コロナはそのありかたを変えてしまった。
空白になったのは学校についての常識だったのかもしれない。
異空間のような、あの空虚さが実は学校の本当の姿だったのかもしれない。
子どもたちの心の問題を考えるとき、空っぽの学校のことを考えよう。
今の学校は、ここちよく居られる場所だろうか?
どうすれば、過剰なストレスがかからない学校を作れるだろうか?
コロナ禍を経験した今、私たちにはそういう視点が必要だ。