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野の百合はいかにして

散歩中、気配がした。振り向けばヤマユリ。声が出そうになった。夕闇に浮かぶ白い顔。あたりにまきちらす甘い香り。こんな道端に。

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帰宅して『華氏451度』の続きを読み始めたら、また声が出そうになった。本が忌むべき禁制品となった世界で、「犯罪者」から1冊の本を盗んだモンターグが、企業広告のささやきが鳴り止まない地下鉄に乗っている場面。

聖書をぐっとにぎりしめる。
そのとき、トランペットが鳴りひびいた。
「デナムの歯磨き」
黙れ、とモンターグがは思った。《野の百合はいかにして育つかを思え》
「デナムの歯磨き」
《労せず――》
「デナムの――」
《野の百合はいかにして》、黙れ、黙れ。
引きちぎるように聖書を開き、パラパラとページをめくり、盲いたようにまさぐり、まばたきひとつせず、ひとつの活字のかたちをなぞる。
「デナムのスペルは、D-E-N――」
《労せず、紡がざるなり……》
熱い砂が空っぽのふるいをとおり抜ける、すさまじいささやき。
「デナムにおまかせ!」
《野の百合はいかにして》、百合、百合……
「デナムの歯磨き剤」
「黙れ、黙れ、黙れ!」その嘆願、その叫びのあまりの激しさにモンターグはわれ知らず立ち上がり、騒々しい車両の乗客たちはぎょっとして、この気のふれた飢えた表情の男、乾いた口でわけのわからぬことを口走り、にぎりしめた本をパタパタさせている男をみつめながら、遠ざかっていた。

レイ・ブラッドベリ(著)伊藤典夫(訳)『華氏451度』早川書房,
p.131-132

モンターグが手にした本は、たまたま聖書だった。彼は聖書(というより本そのもの)を読んだことがなく、偶然目にした一節に心を奪われる。

ヤマユリに驚いた直後、”百合”が連呼される場面を読んだのも偶然である。たいした偶然ではないかもしれないが、本を読んでいるとときどきこのような瞬間に遭遇し、小躍りしたくなる。


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《野の百合はいかにして》は新約聖書マタイ伝六章28‐29章からの引用。このマタイ伝が書かれた時代と場所を想像するに、この《野の百合》の姿は、私がさきほど目にしたヤマユリとはまったく違うのではないか、と直感した。古代の中東と現代日本では、植物の育つ環境が違いすぎるだろうから。

後日、本屋で見つけた澁澤龍彦の『フローラ逍遥』に次のような記述を見つける。

中世の修道院の庭に植えられていたユリ、受胎告知をはじめとするキリスト教美術にしばしば出てくるユリは、いまではヨーロッパでも、めったにお目にかかれないようだ。今日、園芸種として花屋に売られているものは、もっぱら十九世紀の初めに日本から輸入されたヤマユリ、それにテッポウユリやカノコユリだからである。このヨーロッパ中世の白いユリは、のちにアングロサクソンの国でマドンナ・リリーと呼ばれるようになったが、花の大きさでは日本のヤマユリに劣るものの、匂いの強さ好ましさでははるかに勝るという。

澁澤龍彦(著)『フローラ逍遥』平凡社,p.148

欧州に日本のユリを紹介したのは、医師・博物学者シーボルト。江戸時代、長崎の出島にやって来たあのドイツ人学者である。

その後、明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会で日本のユリが出品されて以後、欧州での人気が爆発した。横浜港から欧米諸国への輸出の9割が、日本産のユリ根だった時期もあるという。

私がその姿に驚いたヤマユリ、をはじめとする日本の百合が、はるか昔、遠くのヨーロッパの人々の心を捉え、聖書の世界の定番だったユリを押いやるほど普及する。その巡り合わせを想うと楽しい。



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翌日、国立近代美術館のピーター・ドイグ展に行く。美術館が開いていることの有り難さを反芻する。

ピーター・ドイグの絵画の第一印象は、懐かしくて新しい、だった。懐かしさの理由は、自分のなかである程度説明がつく。たとえば、映画や広告ポスターでお馴染みの構図やモチーフ。しかし、なぜ新しいと感じたか、まだよく分からない。図録を見ながら少し考えてみようと思う。

あとは、とにかく映画『十三日の金曜日』が観たくなった。


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ピーター・ドイグ展と同時開催の企画展『北脇昇 一粒の種に宇宙を視る』も刺激的だった。北脇昇は1930‐40年代に京都で活躍した前衛画家。

いくつかの作品に、画家の植物に対する畏怖の念を感じる。たとえば、どんぐり枝ぶりなど、6点の植物の形態を鉛筆で素描した《素描》シリーズ。対象をただ素描しているだけなのに、植物の種が芽を出し、枝を伸ばし、実をつける。その不思議に画家が魅了されていることが伝わってくる。

特に惹かれる絵は《最も静かなる時》。犬が月に吠えている絵かと思ったら、犬は枯れ木、月は落ち葉だった。植物の不思議を見立ての力によって昇華する、その発想が斬新で面白かった。

この絵の前のショーケースに、画家が絵を書く時のモデルにした本物の落ち葉が一枚、展示してある。画家は、この一枚の落ち葉に触発されて絵の構想を思いついたのか。それとも、絵の構想が先にあり、落ち葉はただのモデルだったのか。この落ち葉が時を越えて私たちに語りかけてくるのは、その存在のみである。


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植物に対する見る目が変わったのはここ数年。本の影響である。

植物はそこまで知っている」を読んで、人間とは異なる植物の知性のあり方を知った。人間とは異なる方法で、植物は視覚、嗅覚、触覚、聴覚、位置感覚、そして記憶を駆使し、世界を感じている。

植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命」を読んで、人類がインターネットやブロックチェーンの技術を発明する遥か昔から、分散技術をベースにした仕組みをモノにしていたことを知り、その先進性に驚く。

種子ー人類の歴史をつくった植物の華麗な戦略」を読んで、種子の構造に託された各植物の生存戦略とその不思議、人類の文化・歴史形成との密接な関係を知る。

こうした本を読んだ後は、日常の景色ががらりと変わる。私たちの生活にありふれた植物たちが、異様な存在に見えてくるからだ。慣れ親しんでいたはずの道端の雑草でさえ。

植物はわたしたちの生活に欠かせない存在だが、その多くはまだ謎に包まれている。これほど未知で異様な存在に包囲されながら、何の疑問も思わずに暮らしていた以前の自分が少し滑稽に思える。


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散歩中、見知らぬ草花を発見するとカメラで撮影し、「GreenSnap」というアプリに投稿する。他のユーザがその草花の名前を教えてくれるので、大変便利。

草花の名前はなかなか覚えられない。(こうしたアプリで)誰かが教えてくれる、という安心感のせいで、記憶する努力を放棄しているのかもしれない。散歩しながら草花を発見し、その名を思い出せず、調べ直し、その特性などを再び学び、毎回驚いている気がする。毎回新鮮な驚きを味わえるという意味では、忘れてしまうのも悪いことではないかもしれない。


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