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絶望の先にあったのは「変わろう」じゃなく「わたしのままであろう」

ずっと変わりたいと思ってきた。
変わらなくてはいけないと思ってた。

いまのじぶんは不完全で役に立たなくて恥ずべき存在だ。
だからもっと誰かの役に立って、もっとお金が稼げて、もっと人に認められて、もっと輝かしいじぶんになるために、もっともっと努力してじぶんを磨いて、変わり続けなければならない。
そう思って生きてきた。それはもう強迫的なほどに。


本来の不完全なじぶんを人に見せてはいけない。
できるだけ不完全なじぶんを隠して、憧れのあの人のような明るくて優しくておおらかな人を演じなければならない。本来の不完全なじぶんの姿は誰にもバレてはいけない。そうやって常に気を張り詰めて生きてきた。


あれほどに強迫的だった「変わらなければ」という思いがいつの間にかなくなっている。


いまわたしがやっていることは「ありのままのじぶんを受け入れる」ということ。
不完全で役に立たなくて、お金が稼げなくて、人の役に立たなくて、社会の役にも立たなくて、体力がなくてすぐに疲れて、わがままで、人と合わせることができない。機転をきかせたり要領よく立ち回ることもできないし、繊細すぎて大勢で過ごすこともできない。たまに意図せず人をバカにしたり失礼な発言をして空気を凍らせることもある。

どこまでも残念で、わたしが大嫌いなわたし。

そんな不完全なわたしをそのまま受け入れていくことが、いまわたしがやっていることだ。
そんな恥ずかしい自分を許していくこと。
それがわたしがいま一番やるべきことだ。

それは世間や親が認めるより良い自分になる努力とは正反対のところのあるものだ。
どんな自分も許せるようになった先に、わたしが目指すユートピアがある。


どうやってそんな心境に辿り着いたかと問われれば、そのターニングポイントになったのは「絶望」だったような気がする。

2年半前、夫が突然亡くなった。いちばん大切なこどもたちをこれ以上ないほどに傷つけた。そんな人生の危機にあっても、親ともきょうだいとも心が通じなかった。そのとき感じたのは深い深い絶望だった。

あのころ、わたしはいろんなことを諦めていった。

夫が亡くなったこと。
それはどうやっても変えようのない事実だった。そこには諦める以外の選択肢はなかった。

それから母やきょうだいのこと。
どんなにわたしが深く傷ついていようとも、彼女たちはわたしを責める言葉がけしかできなかった。寄り添ってくれるということがなかった。
彼女たちにはそういった能力がなかった。
元々持っていないものを求めても仕方がない。
わたしは親やきょうだいと分かり合うことを諦めた。

そして死別の衝撃からなかなか元気になれない自分。
一年経っても、2年経っても、2年半経っても元気にならなかった。
少し元気になったと思ってもまた調子を崩して寝込むことを繰り返した。
そうやってわたしは自分に期待することも諦めた。わたしは自分に鞭を打つのを諦めた。努力してより良い自分になることを諦めた。
わたしはわたしで、わたし以上にはなれないのだと心底諦めた。


その時期に味わったこれらの絶望がわたしを安心で心地よい場所に運んだ。

諦めて諦めて、心底絶望したその先にあったのはそのままのじぶんで生きるしかない、そのままのじぶんで生きていい、という赦しだった。
その赦しはわたしに深い安堵をもたらした。
それはわたしが最もほしかったものだった。


もうわたしは「変わろう」と思うことはない。
自分を変えなければと焦ることもない。
もし弱い自分、恥ずかしい自分、情けない自分、そんな嫌いな自分がでてきたら、そんな自分に思いやりのまなざしを向ける。ただ愛を向ける。そんなダメな自分をどこまでも受け入れて赦していく。

本当は目指すべき自分なんていなかったんだ。
じぶんを変える必要なんてなかった。
わたしは最初からわたしのままでよかった。

幼少期のいろんな経験から、もっと良い自分にならないと愛されないと勘違いしてしまっただけだった。

わたしはその誤解を少しずつ解き明かし自分に教えている。

「それはあなたの誤解だったんだよ。
本当はあなたはあなたのままでよかった。
他の誰にもなる必要なんてなかった。」

と。


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わたしの人生のテーマであるセクシャリティー、毒親、癒し、統合、死別、共依存などについて綴ります。目標月10本以上更新。みなさんの応援がわた…

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