二葉亭四迷「浮雲」を面白くないといえる人が羨ましい。
小説は時として自身の見たくない部分を映す鏡になる。
僕は二葉亭四迷の「浮雲」という小説を読んだときに、自身の弱さを嫌というほど直視することになった。
浮雲の主人公「文三」はとにかく自主性のない男だ。グズグズとしているだけで、行動することが出来ず「お勢」というヒロインにも愛想をつかされてしまう。そのうえ、要領が悪く人付き合いが上手くないため、どんどんと悪い状況に追い込まれていく。
そんな「文三」の様子は、要領の悪い僕自身によく似ている。僕も自主性がなく、決断が遅い。また、人付き合いも上手くないために割を食ったことは一度や二度ではない。だから「文三」が自分のコンプレックスを具現化したかのような存在に見えて仕方がない。
「浮雲」を読み進めるほどに僕は「文三」という存在を通して、彼の人生を疑似的に体験しているような感覚を味わった。勿論、小説は多かれ少なかれこのような感覚を味わえる。ただ「浮雲」の没入感は他の小説の比ではない。これが「文三」というキャラクターの魅力であり、二葉亭四迷の巧みさなのだろう。
僕にとって「浮雲」の面白さの大部分は「文三への共感」にある。自分と似た男が、どのような選択をして、どのように落ちぶれていくのかは、読んでいて苦しいが興味はつきない。逆に「文三への共感」がない人からすれば「浮雲」はあまり魅力的な作品ではないのだろう。
作者の二葉亭四迷は自主性に欠ける日本人を批判して「浮雲」を書いたといわれている。つまり「文三への共感」がない人は「文三」と真逆の自主性に溢れた、人付き合いの上手い人間だと考えられる。そんなポジティブな人が「浮雲」を読めば面白いと思わないのは当然かもしれない。
逆に「文三」に共感できる、僕のようなタイプにとってこれほど面白い作品もない。読んでいる間、ずっと自分の嫌な部分を見せられているような気分にはなるが、それもひとつの面白さであり、魅力である。
「浮雲」を面白くないと言える人は、自主性に溢れた人付き合いの上手い人だろう。そんな人間に昔から僕はなりたかった。でも、そんな風にはなれなかった。だから「浮雲」を面白くないと言える人が羨ましい。「浮雲」を心の底から面白く感じた僕はそんな風に思う。