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京極さんの熊野詣トレイル④ DAY1 四天王寺「天国の門」

ターンオーバーの目玉焼きをトーストにのせ、トロピカルアイスティーをガブ飲み。ようやく身体も満足した。大阪駅前から歩き始め、気づけばすでに8.9キロ。どうりでいやにのどが渇く。
ロイヤルホスト上本町店に、ごちそうさまと感謝を捧げ、ここから目と鼻の先である四天王寺に向かう。四天王寺は聖徳太子の創建といわれ仏教寺院としては最古とされる。

鳥羽から船に乗り、渡辺津から歩いた数百人の後鳥羽上皇一行の最初の宿泊地がここ四天王寺だった。目玉は四天王寺の西門で、この門が西方極楽浄土の東門にあたることから、ここから夕陽を拝むことがそのまま極楽浄土を拝むことになると、聖地化されていた。当時は近くまで海が来ていたらしく、海に沈む夕陽に念仏を唱えていたのだという。ただ、我らの京極さんこと藤原定家が、西門の辺りを歩いたのは確かだが、夕陽を拝んだかについては記録にない。もし、拝めたならばきっとこの年の初めにあの世に旅立った式子内親王のことを思い、祈っていたんじゃないだろうか。。。。。

四天王寺の鳥居から海が見えていたらしい


とはいえ、現実は宿泊の準備やらでそれどころではなかったかもしれない。
何しろ京極さんはこの初日で、すっかりくたびれ果ててしまい粗末な宿舎で休んでしまっていた。ところが、上皇の側近である藤原長房が「明日、住吉大社で歌を詠んで」という上皇からのお達しを伝え、さらに「あ、あとこれ3つのお題です」と続けて、とっとと帰っていった。
出世を考えれば、ここが腕の見せどころではあるものの、疲れとボロ屋じゃ何も浮かばないと、ついに、その夜は自分の(正確には姉の九条尼の)領地である讃良庄(ささらのしょう)で休むことにした。讃良庄は今の四条畷、寝屋川、大東あたりらしいのだが、距離を考えればもう少し近いところもその領地だったのかもしれない。とはいえ、初日はゆっくり休むことができたと述べている。

ちなみに、この四天王寺の北のあたりを「夕陽丘」というが、ここもこの夕陽の名所から来ている。歌人として京極さんと双璧で、ともに新古今和歌集の撰者となった藤原家隆が晩年、ここから沈む夕陽に魅せられ、極楽浄土を求めて「夕陽庵(せきようあん)」を設けたことからこの名がついた。定家の方が家隆より4年長生きしたことから、家隆が亡くなった際には、家隆や庵のことを思うついでに、生涯一度の御幸を思い出したのかもしれない。

さて、再び現代。残念ながら、夕陽まで待っていられないため境内の池で甲羅干しをする大量の「亀」を眺めながら一息つき、近くの「茶臼山」を登りに行く。冬の陣では家康の本陣、夏には真田幸村が陣を敷いたとされる小高い丘に、こんなにも小さいのかと思いながら戦国最後の戦いに思いをはせ、その足元の池が和気清麻呂がつくった人工池と知り、続けざまに奈良の世を思い、歴史をごちゃまぜにしながら、あべのハルカスに向かった。そこでも、2000円の展望台の料金に逡巡した挙句、結局、先を急ぐことにした。

和気清麻呂がつくったとされる河底池からの通天閣

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