藤原定家の熊野詣をトレイル⑬ DAY3 中央構造線 雄ノ山峠を越える
子どもの頃、日本地図に気になる線を見つけた。九州の阿蘇あたりから四国の佐多岬、そして吉野川、紀ノ川、伊勢、さらには渥美半島まで、まるで誰か地図の上に一本の線を引いたような地形が気になってしょうがなかった。大人になりそれが中央構造線という名の古い断層で、関東まで続いていることを知る。そしていま、その中央構造線に沿った和泉山脈にある雄ノ山峠を越えようとしている。
ところが、道が狭い。歩道がない。交通量も意外と多い。運転している者にとって狭い山道の歩行者は恐怖でしかないので、申し訳ないと思いながら歩く。ついさっきまでは「中央構造線が地形に影響を与えているのかなぁ」とか「見てわかるようなものなどあるのかなぁ」などと楽しみにしていたのだが、そんな余裕はすぐにしぼんだ。
こうなれば早めに峠を越えてしまおうと、ひたすら前へと進むと2Kmほどで県境を越えた。県境の横に日本最後の仇討ちの碑があったがスルー。でも、歩きながら、討たれた方の死体はどうしたのだろうか。討った側が埋葬するシステムなのかと、どうでもいいことは頭に浮かぶ。
さらに歩を進めると、山間の平地に和歌山の初めての集落、滝畑集落が現れた。そして、中山王子もここにある。
かつてこの場所は峠越えに備える宿場としてにぎわったそうで、その険しさから修験者の行場でもあったそうだ。しかし、いまは静かな山村で、どこかの飼い犬も吠える相手が久しぶりなのか、見えなくなるまで吠えてくれた。
街道に戻ると、あっという間に峠に至った。
今でこそ歩きでも簡単に越えられる峠だが、藤原定家の一行が通った時代はやはり大変だっただろう。よく、この日の行程を峠越えを含めた40キロコースにしたもんだ。貴族はいい。体力が有り余る上皇もいい。馬や輿を使えない従者は重い荷物をもたされたはずで、気の毒でしょうがない。
そう考えていると、今度は、目の前に巨大な構造物が現れる。雄ノ山高架橋だ。現代人が見ても圧倒される。定家が見たら、どのように書き残すのか。
そこからすぐに麓の山口王子に到着し、峠越えを終える。思ったよりも時間も体力も使わず、お腹もすいていない。さらにしばらく歩くと、目の前の景色が広がった。ようやく和歌山県だ!そして、ありがとう大阪!
その後、川辺王子、中村王子へと参るのだが、紀ノ川という大河の氾濫によってたびたび土地がかき混ぜられたのであろう。「かつてはここだった」とか、「ここかもしれない」といった案内が多い。定家ら先遣隊もここの紀ノ川北岸で昼食にしているが、その周囲もゴロタ石ばかりで荒涼とした土地だったと書いている。
そして、昼を食べ終わっても、なかなか上皇一行が追い付かないため、やきもきしていると、足を挫いたはずの藤原忠信少年(右近衛少将)がやってきて「先に行っちゃいましょうよ」と言う。促されるまま地役人の漕ぐ船で、対岸の吐前(はんざき)王子へと向かうことにした。
一方、現代人も泉佐野駅から歩きはじめて25キロを超え、ちょっと疲れてきたので、吐前王子近くのJR和歌山線布施屋駅を本日の終点にする。駅に着くと歩いた距離は29.3㎞。そりゃ疲れる。
本日の宿は和歌山市内。風呂に入って、早く寝ることにしよう。