京極さんの熊野詣トレイル⑱ DAY5 藤原定家、寝坊する。
いい寝覚めというのは、よく寝た証であり、よく寝たということは寝すぎている可能性もあり得る。大きく伸びをしたかはわからないが、藤原定家の心地よさは一瞬で消え失せた。
10月9日の熊野御幸記は「朝の出立すこぶる遅々の間、」と、はじまる。要は、寝坊したのである。すでに藤白王子では、奉納する御経を唱える声が響き渡り、白拍子の舞を見ようと地元の里人でごった返していた。おそらく、目の前の海(黒牛潟)での潮垢離も終わったであろう。
いまさら、御前にどの面さげて出ていけばよいのか。「すいません!寝坊しました!」と謝るか、いやいやそんな爽やかさいらないし、、、、、いろいろと考えたものの、結局、藤白峠を登り、先を急ぐことにした。
さて、現代。藤白峠は難所と言われるだけあって急な登りが続くが、振り返るたびに眼下の海と町並みは広がっていく。さらに、足元には小さなお地蔵さんが一丁(約109m)ごとに見守ってくれている。
とはいえ、登れども、登れども頂上の気配はなく、だんだんと木々は深くなる。ふくらはぎから不満が漏れだし、さすがに、ちょっと休もうかなと思った、そんな時、急に平坦な尾根に到達し、視界も広がった。
南側の斜面は一面のみかん畑であり、この峠の上まで車で上がって来れるようだ。藤白塔下王子も目の前。その横には、御所の芝と呼ばれる白河上皇が行宮を置いた小さな広場があり、そこからの眺めは、遠くに淡路島をのぞみ最高に美しかった(一番上の画像)。ただ、イノシシ注意の看板と道中にもコロコロとイノシシの糞が転がっていたので、先を急ぐことにした。
この日、出来れば湯浅まで行きたい。ただ、目の前には、次の峠である蕪坂、拝の峠が見えている。その険しさにやや不安を覚えるものの、前に進むしかないので坂を下るが、熊野街道は「迂回」という言葉を知らないので、一直線に下っていく。その分傾斜もキツイので、滑らないようにちょこちょこ降りていくため、今度は太ももの前、大腿直筋が悲しい声を上げ始めた。
筋肉の悲しい声とともに、坂を下ると次の橘本王子跡が現れ、その横には、ミカン発祥の地とある。由来はこうだ。
”第十一代垂仁天皇が、田道間守(たぢまもり)に不老長寿の薬を探すよう命じたので、田道間守は常世国(中国?)に渡って探し続け、ついに「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」いまの「橘」を8枝持ち帰ることに成功する。喜んで帰ってきたものの、既に天皇は崩御されており、悲しみにくれた田道間守は陵に橘を捧げて命絶えた”という話で、その橘が日本で最初に移植されたのが王子横にある「六本樹の丘」なのだそうだ。
そこでちょっと気になることが。佐賀の伊万里神社に参ったときのことを思い出した。ここもまた田道間守が帰ってきたときに、この地に非時香菓を一株植えたという言い伝えがあった。場所的にはこちらの方が中国に近いので植えたのは早そうだが、、、まあそんなことはどうでもいいか。
現在、橘本王子は近くの橘本神社に合祀されており、この神社がミカンの発祥ということから、果子の神様、転じて菓子の神様になっている。そのため全国の菓子メーカーから崇敬を浴びており、お詣りした際に協賛名簿を見ていたら、有名メーカーや老舗店の名前が並んでいた。ちなみに、伊万里神社にも地元出身の森永太一郎(森永製菓創業者)さんの銅像がある。
ここからさらに蕪坂、拝の峠に入っていくのだが。地図を見ると、この先の峠まで海南市なのだそう。かつての下津町と合併したことからこんなに広くなったらしい。ちなみに栃乃和歌(現在の春日親方)が下津町の出身らしい。大関になれそうだったんだけどなぁと、思い出す。
それにしても和歌山県に入ってからあちらこちらでミカンが栽培されている。それもここから広がったということか。ところで、京極さんたちもミカンを食べたのだろうか。「熊野御幸記」にそんな記述はない。