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マッチング、医学部卒業、研修医

マッチング、国試、そしてようやく医者として働き始めたこの数ヶ月の感想など。
この数ヶ月は人生を振り返ってもかなり濃い期間だったと思う。少し落ち着いた今、思ったことをつらつらと書く。

マッチング、国試を経て研修医として働き初めていろいろなことを考えさせられた。「自分にとっての幸福とは」「本当になりたい自分は」などなど。これらについて自分なりに考えをまとめて整理しておきたいと思い、このnoteの形にして残そうと思う。

マッチングについて

方針など

まずマッチングについて。医学部以外の人には馴染みがないだろうが、就活のようなものである。これを読んでくれる人は大体知っていると思うので割愛するが、医学部卒業後の2年間の初期研修をどこで行うか、を決めるものだ。

2年間という短い時間ではあるけど、どこで最初の2年間を過ごすかというのは医学生であった自分にとってはとても大きな問題に感じられた。確かに、「たかが2年間だし、行ったところで頑張ればあんまり関係ないよ」という声も多いし、間違っていないのだろう。

それでも、結局自分は困難な道を選んだ。つまり地元である千葉を出て東京のいわゆる有名病院を目指してみることにした。この選択をした一番の理由は、そういう有名な病院の方が面白い同期やすごいと思える先輩、指導医に会えると思ったから。将来やりたいことが決まっていて、その分野でこの病院が有名だから、みたいな志高めの目的は特に無かった。とりあえず頑張りやすい環境、刺激的な環境に行ってみたかった。

人間は「何も行動を起こさなかったこと」を悔やむようにできているらしい。なぜなのか。それは、「何も行動を起こさなかったこと」は、「ああしておけば良かった」「こうすることもできた」などと、無限の可能性を感じさせるからだそうだ。

そういった点で、あの時の自分の選択は間違っていなかったと思う。少なくとも、困難と思われる道に挑戦できたし、運を味方につけて第一志望に進むことができ、いい結果で終わることができた。


自己分析について

マッチングを控えて自己分析に割と時間をかけた。そして、結局自分の人生を振り返ってみると、一緒に働く同期や先輩が一番大事なんじゃないかという結論に至った。一緒に働く同期が優秀で、魅力的であれば、しんどいと思われるような仕事でも頑張りたい、とポジティブな気持ちを持って取り組めるのではないか、と思った。

まだ働き始めて少ししか経っていないが、この感覚は間違っていなかったと確信している。もちろん有名病院でなくても魅力的な同期には出会えるだろう。ただ、入るのが大変な病院を受けようと思って、実際受かるようなパワーがある人の方が面白みを感じる確率は高そうだと個人的には思っている。

これを読んだ人の中にマッチングを受ける前の医学生がもしいれば、ぜひ自己分析はちゃんと腰を据えてやった方がいいと思う。価値観や考え方は本当に人それぞれだし、いい病院に行けば幸福度が上がるわけでもない。自分にあった就職先を探す上で自己分析は必要不可欠だと思う。

実際に、共に働く同期たちには毎日いい刺激をもらっている。自分の病院の特徴でもあるかもしれないが、みんなコミュニケーションに長けていると感じる。逆に自分はあんまりそういう面には自信がなく、それだけに学ぶこともすごく多い。知れば知るほどすごいやつばっかりだけど、初対面ではそんな感じは全くなくてみんな謙虚だし俺はすごいんだ!って感じの人はいない。同期から学びたいことがたくさんあるというのはすごく幸せな環境だと感じる。


自己分析を通して考えたこと。

自分のやりたいことを見つける

自己分析では、自分の理想とする将来像を明確にすることがかなり大事になってくる。自分は帰納法、演繹法を使うようなイメージで取り組んだ。

まず自分の普段の行動を洗い出し、どんな時に幸福を感じるかを列挙する。「昨日の飲み会、めちゃくちゃ楽しかったなあ。」とか「誰にも邪魔されずアラームなしで寝る休日の前日の夜が一番幸せだな。」とか。そこから、じゃあどんな職場でどんな働き方をするのが理想的なんだろう?と考えを膨らませていく。これが帰納法的な考え方。

一方演繹法的考え方では、
「成長することに幸せを感じる」
→進捗を可視化することで楽しく努力を積めるのではないか
→数字で目に見えるように毎日の進歩をカレンダーに書き込もう
といった風に抽象から具体的な方向に思考を巡らす。

また、好きなことだけではなく、嫌いなことを掘り下げてその理由を探るのも時には有用だと感じた。

どれも簡単なものではない。本当の意味で自分がやりたいことなのか、心から楽しく取り組んでいるのか、どこかで自分に嘘をついていないか、自問自答を繰り返しながら進めていくことになる。

自己分析では、純粋な欲望スタートしてもいいのではないか?と思う。お金が欲しい、地位名誉が欲しい。そういった一般的には崇高でないと捉えられる考えでも、強いパワーを持っているのなら利用した方がいいのではと思う。大事なのは繰り返しになるが、自分に嘘をつかないことであると考える。自己分析で取り繕うメリットはない。


比べること。他人と。昨日の自分と。

SNSを見ていると、数千、数万、数十万のフォロワーを持つ人がまるで大量にいるかのように見える。自身がしている努力、それによって得た能力や立場、名誉名声などを公にすることで、それを拡散することで支持を集めている人がたくさんいるように思える。そしてつい自分と比べてしまう。

これはあくまで個人的な感想でしかないが、こういう人たちに対して、どうしてもマイナスな感情を抱いてしまうことがあるのは自分だけではないのではないだろうか。うざい、鬱陶しいなどといった負の感情をはっきりと抱いているわけではなく、「すごいんだろうけど、あんまり真似したいとは思わないなあ」と思ってしまうような感じ。

ここで自分が考えたことは、「この負の感情の根底には、頑張りたくない、挑戦したくない、コンフォートゾーンに居座っていたいから、頑張っている人、挑戦している人を冷たい目で見ようとしているのかもしれない」ということ。「自分が頑張った所で、この人たちを今の自分が冷たい目で見ているように、近しい人たちにも冷たい目で見られるのではないか、と怖がっているのではないか」とも考えた。

我ながら、なかなかパンチの効いた思考ではある。悩みが本当にこういった理由であるならば、それはやはり幸福に近づけない一つの要因になっている可能性がある気がする。嫉妬していると認めるのはなかなかハードルが高いものだ。


『列』 中村文則 を読んで

目の前に列がある。列はどこまでも長く続いていて、先に何があるのか、後ろにどれだけの人が並んでいるかも分からない。この物語はそんな不思議な描写で始まる。

大学で非常勤講師をしながら猿の研究をする物語の主人公は、その列に並んでいる一人だ。彼を含めた人々は当然、苛立っており、誰もが一歩でも前に進みたい、自分が先頭にいたならどんなにいいだろうと思っている。そして、この場所が最後尾ではなくてよかった、とも。

読者は読み進めていくと、この「列」が文字通り終わりのないものであることに気付かされる。
なぜこの小説をここで引っ張ってきたかというと、この小説全体がなんでも他人と比べてしまうこの社会を風刺していると感じたからだ。

あらゆるところに、ただ列が溢れているだけだ。何かに競争や比較から離れれば、今度はゆとりや心の平安の、競争や比較が始まることになる。

『列』 中村文則

特にこの一文が自分に突き刺さった。成果や地位の自慢競争はわかりやすい。しかし、ゆとりや心の平安などに関しても、知らず知らずのうちに比べてしまっているのかもしれない。無意識のうちに、心の平安やゆとりのマウントをとってしまっていないだろうか。

この本を読んでしまうと、もしかしたら自分達は一生競争や比較から逃れられないのではないかと思わされてしまう。競争や比較を嫌うのではなく、うまく使う道を見出していく必要があるのかもしれない。



幸福の根源

人生を生きていく上で、何を指針にしたらいいのかわからなくなる時がある。

自身の幸福、を目指せばいいのか。他者貢献に意義を見出すべきなのか。友人家族と幸せになることを目指すのが良いのか。はたまた、生まれ変わった時、他の誰でもないこの自分になりたいと思えるように行動すべきか。

ここでは一旦、「自身の幸福」を指針として考えてみる。

理由としては、他者貢献をすることや家族、友人の幸せも願いそのために動くこと、これらは結局自身の幸福にもつながっていると考えられるから。人間関係において感じる幸福感は他に変え難いものであるというのは多くの人の共通認識であり、そのためには利他的な側面も必要だと考えられる。

また、幸福であるためには、基本的には他人との競争から降りる必要があると考える。ないものねだりをするとキリがないことは誰しも実感できることだと思う。先の『列』という小説について考えた章でも述べたとおり、競争や比較に固執しないことで、例えば「自分がもし生まれ変わることができたら〇〇のようになりたい」と思うことは少なくなるだろう。そして、今現在の自分を見つめ、許容していくことで適切な自信にもつながると考えている。

もちろん必要な競争もあることは言うまでもない。いわゆるライバルの存在は特にスポーツなどの分野では大きなものである。ただ、その勝ち負けが全てではないことは確かだ。競争や比較をうまく利用する適切な距離感が必要である。

過去に幸福について考えたNoteではこのように述べた。

幸せの感じ方は何を達成したかや自分の立ち位置ではなく、「今どの方向を向いているか」で決まるのではないか。そして、その方向が自分自身の価値観、人生の本当の目標に沿っている時、幸せを感じるものである。

そして勝手に提唱したのが空間ベクトル的な考え方である。
自分の”本当の目標”を表す点が座標として決まっており、自分がいかにそこに向かっていけているかがベクトルとその大きさで表される。つまり幸福度は向きとその時の熱量の大きさで決まるのではないかと考えた。

今でも概ね同じ考えは持っているが、今回はここからさらに発展して思考を深めていきたいと思う。

空間ベクトル論の欠点としてまず挙げられるのが、目指すべき本当の目標は一点では表しきれないのではないかという点である。

例えば、「家族を大事にしたい」vs「仕事で独立して自分の店を持ちたい」
どちらも本当に求めているものでも、これらを融合させた目標とするべき一座標は存在するのか、甚だ疑問である。そして、実際の人間では今例にあげた一つの対立構造だけではなく、幾つもの目標が絡み合った複雑なものであるはず。

まず第一歩は自分の求めるものをリストアップし、できるだけ整理すること。仕事が最優先で、家族は週末会えればいいと思っているかもしれない。それは人それぞれ。そして年齢を重ねて人生を進んでいくうちに考えは変わるもの。定期的に振り返り、ブラッシュアップする作業が必要になってくる。

やはり、幸せに生きるために目指すべき北極星は存在しないのかもしれない。わかりやすく、単純に考えるために人間が作り出したもの、人々の希望から生み出された虚構なのかもしれない。

ただ、目標とすべきものをある程度の領域としてイメージすることは可能かもしれない。そして、その方向に向かって一歩一歩前進していると実感できている時が、幸福度が高い時なのではないかと思う。

なんともぼんやりとした考察になってしまったが、やはりなんとなく直感的に感じることは、「人生は〇〇を目指せば幸せになる」のような甘い誘い文句は、ただの大衆向けの甘言であり、そんな簡単であるはずがない、ということだ。何かそういうシンプルな正解があるのなら、なぜみんなが悩んでいるのか。つまりそういうことなのだ。

とりあえず今の自分にはこの考え方が一番しっくりきた。



本当になりたい自分を見失う理由。

何が自分の目を曇らせるのか。

一つ思ったことは、冒険したくない、不安を感じる環境に飛び込みたくない、という恐怖心は自分が思っているより根強いのではないか。ということだ。

本当はチャレンジをして、スキルを磨いて、尊敬されるような、そんな自分を思い描いてはいるけれど、そこまでいくのに必要な勇気や努力をしたくないから、その考えに蓋をする。

多少道は違えど、この思考は誰しも通る道なのではないか。もし今、何にチャレンジしても、どんなに失敗しても、人に馬鹿にされない、支えてくれる人がいるとしたら、何をするだろうか。何にチャレンジしたいだろうか。そしてどんな自分になりたいのだろうか。一旦手を止めて、このように自分に問いかけてみると、どのような考えが浮かんでくるだろうか。

時にこの問いを自分自身に問いかけることはかなりの苦痛を伴う。なぜならば、自分が本当にやりたいこと、挑戦したいことから逃げ続けているという事実を突きつけられることもあるからだ。

もちろんこのやり方を全員にお勧めすることはできない。そして、目を背けていたことに立ち向かうことはもちろん立派だし、逃げた先でなんとか乗り越えていくのも決して劣った道ではない。両者を比べることなどできないと思う。ただ、自己分析を通してどちらの道が自分にとって良い選択かを吟味することは有意義なのではないかと思う。


研修医の2年間を「どのように」頑張るか。

「体力がある」って何?

臨床医として働く以上、優秀だと言われたい。少なくとも、後指を刺されてあいつはダメだ、と言われるのはしんどい。「優秀な研修医になるために必要なものは?」と考えた時、どんなことを思い浮かべる人が多いのだろう。学生時代、これについて考えた時まず思い浮かんだことは「体力があること」だった。

ただ、「体力があるって何??」と思う。ここでいう体力というのはもちろん持久走が早いとかそういうことではない。学生時代、「バイトも部活も学業もちゃんとやって遊び回ってる」みたいな人、周りにいませんでしたか?そういったイメージ。パワフルでバイタリティーがある人。自分も体力はそこそこある方だとは思っていたけど、やはり自分より体力あるなって人はいっぱいいるし、そういう人が仕事もできるんだろうなと思っていた。

たまーにいる本物のショートスリーパーとかは除外して、多少は体の強さとかもあると思うけど、本質はそこではない気がする。一つ一つ分解してみると、行動力、人付き合いの良さ、面倒見の良さ、ポジティブシンキング、メリハリ、自己管理能力、、、みたいなものが合わさって結果的に体力あるなと思われる、もしくは簡単に一言でそう褒めるために体力があるという表現を使っている、のではないかな。と最近気がついた。

もしかしたら、上にあげたような点で優れた人が結果的に「体力がある」ように見えているだけなのに、正面から負けを認めたくないのか、自分が劣っている部分を分析したくないのか、原因はいろいろ考えられるけど、とにかく少し目を背けるために「あの人は体力があってすごい」みたいな簡単な言葉に落とし込んでしまっていたのかもしれない

バイタリティー溢れる人を見て、「あいつ体力あるなあ」と思うだけではなくて、何がうまくてそう見えているのかを考えて真似していけたら、自分もできる研修医に近づけるのではないかと思うし、研修医としてに限らずあらゆる場面で活きてくる気がする。


研修医での目標の立て方

自分は今までできるだけ具体的な目標を掲げることにこだわってきた。しかし、研修医として設定すべき目標の難しさは、具体的な数字を立てにくいことにある。

高校や大学と違って、目標とする試験も大会もなければ、研修医としての優秀さを評価する項目は無数にある。そして点数にできるものはほとんどないように思われる。

「長期目標に向かって努力するべき」vs「今この瞬間に生きるべき」

前者は社会的な成功体験をまとめた本で口を酸っぱくして言われていたこと。後者は幸福を論じたアドラー心理学の考え。一見矛盾しているように見える。社会的成功を目指すための本と、幸福を追求した本であるため、当たり前と言われればそうなのかもしれないが。

自分はまだ3年目以降の進路をちゃんと決められていない。それもあって、長期的な目標の設定が難しい。

これらを踏まえると、長期目標を掲げにくい今は、今を生きることに集中するのがいい策なのではないかという結論に一旦落ち着いた。今年の目標は
「無遅刻無欠席」
毎日とにかく行って、なんとかついていけばどうにかなるんじゃないかと思っている。

目標を無理に探すのも変かもしれない。頑張り方は色々あっていいと思う。毎日を必死に生きていたらいつの間にか研修医が終わっていた、というのも悪くはない気がする。環境がいいだけに、それでも一定ラインは成長できるのだろうと思う。


研修医になって。最初の2ヶ月の感想


新社会人としての一般的なしんどさ

自分が就職した病院はおそらく、かなりホワイトな部類に入ると思う。働き始めて感じたのは、「こんなにホワイトなのに、結構しんどいこともあるなあ」だった。しんどさの原因はいくつかあるが、自分なりに分析して1番大きいように感じたのは、「なんにもわからないという感覚」だ。

こんなにもあらゆることがわからないという経験は人生の中で今までなかった。物の位置も分からなければ、名前も知らない、どうやって調べればいいかもわからないし、誰に聞くべきかもわからない。

職場で周りを見渡したときに、自分が1番足を引っ張っているという感覚も、意識してしまうとなかなかしんどいものがある。当たり前だし、みんな通る道だと言われればそれまでだけど、うまくストレス処理しないとじわじわと効いてくるなと思う。

ありきたりすぎて書くのも迷ったが、自分で自由に使える時間が遥かに少なくなったことにも、まだあまり適応できていない気がする。これは徐々に慣れるしかない。限られた時間を大切に使いたい。

また、一番最初に挙げた「なんにもわからない」という気持ちを大事に、忘れないように持っておこうと思った。このノートに形として残そうと思ったのもこれがひとつ大きな理由になった。来年以降、否が応でも自分が指導する立場になる場面がやってくる。その時に、最初のこの気持ちをできるだけ忘れずに、指導できるといいなと思う。

少し脱線すると、自分が大学の部活にいた時に驚いたことがある。引き継ぎ資料が少なかったことだ。また、かなり歴史も長い部活なのに、引き継ぎが文章として残されるようになったのが最近だったことに驚いた。もちろんすごく前の時代には別の形であったと推測されるが。

自分は部の主将として役職を引き継いだが、「その仕事をやる時になったら先輩に聞いてくれ」みたいな方式を取られることも少なくなかったと記憶している。

たしかに、その時に分からなければ聞けばいいじゃんという意見もわかるが、いちいち聞く手間もかかるし、聞かれた先輩側も記録が残っていなければ記憶を頼りに教えることになり不正確になってしまう可能性がある。引き継ぎを作るのは、面倒だし、作る側に大してメリットがあるわけではない。ただ、それを理由に適当に引き継ぎをするのは、自分の理想とする姿ではない気がする。

ただ、こんなことを言っておいて、正直に言うと部活の引き継ぎでは満足いく引き継ぎができたかと言われると、そうではなかったと思う。結局まあいいかと思って妥協してしまった部分はあった。今後はその時みたいに甘えないようにしたい。

仕事の場面で、例えば「3回やれば覚えるよ!」と言われても、たしかに言いたいことはわかるけど、事前に予習して最初からできるのなら、「文書で明文化されたものを引き継がれた方がよくないか?」と思ってしまう。もちろん研修医で言うと点滴を取ったり、実際に患者さんの診察をしたり、といったことはケースが無数にあるためマニュアルにするのは難しく、やってみるしかないし教える側も限界がある。しかし、事務的な面や「何を学ぶべきか」の指針は指導した方がいいのではないかと思う。

ただここで一つ断っておきたいのが、病院で指導してくださる先輩方に不満があった訳では全くない。忙しいのに、びっくりするくらい丁寧に教えてくれるし、なんでも聞きやすい環境、雰囲気がある。これもホワイトたる所以だろう。



結局、研修医楽しいぞという話

ネガティブめなことばかり書いてきたが、自分の中で少し溜まっているモヤモヤした感情を整理したかっただけで、実際にはポジティブな感情がほとんどである。これはひとえに、最初に述べた通り、就職した病院がホワイトであり、優秀で魅力的な同期、先輩方に囲まれているからである。

また、ずっと目標としてきた医師として働くことに日々ワクワクしている。できることが少なくてどうしても退屈な時間が多かった学生の実習と比べるとはるかにやりがいがある。学生より忙しく、責任もあるけど給料をいただけるというのもやはり大きく違うところである。

救急外来の現場では、色々な主訴で来た患者さんに問診、診察、検査を行い、鑑別疾患を列挙し、必要な処置を考える。かなり難しいけど、適切な対応ができれば救える命もあるかもしれないし、そこまでいかなくても、患者さんの不安、苦痛を和らげることができるかもしれない。

少しでもはやく仕事になれ、日々勉強し、知見を深めることで誰かの役に立ちたいという気持ちになる。



まとめ

この記事に書いたことの大半は贅沢な悩みなのだろう。恵まれた環境で社会人として、医師としての第一歩を始めることができて、日々多くを学び理不尽なストレスもない。

考えすぎな部分もかなりあると思う。経験上自分なりにこうやって形にすることで目の前のやるべきことに集中できる気がしているから、こんな風に余計なところまで思考を広げてみた。

これだけ新しい環境に飛び込んで、慣れないことを毎日してミスしまくっているのだから、精神的にも肉体的にもストレスはあって然るべきだと思っている。こうやって書き散らしにはなっているものの、自分なりに状況を整理し、思考をまとめて文章として形に残しておくことに一定の意味を見出したいと思う。




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