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母性にあふれた母にはなれないけど、苦楽を分かつ戦友にはなれるかも知れない

もしかして自分には「母性」というものがないのではないか?と思うことがある。

我が子は大切だし、もちろん可愛いが、どうしても子育てに負担感が伴う。
子どもたちと公園に行くのが楽しいとか思うこともあまりなく、修行のような気持ちでそれをこなす。

子育てを楽しく語る人に会うたびに、自分はなんでそんな風に思えないのだろうと疑問であった。


古くからの友人も、
「彩理ちゃんが母親だなんて想像がつかない」
という。

実際に子どもと一緒にいる私を見て、あまりに淡々と冷静に、大人と話すような語り口で接していることを驚かれることもあった。

私は、いわゆる赤ちゃん言葉のような、子どもに応じた言葉もなかなか使えないし、近所の子どもたちにも敬語で話しかけてしまうような、子どもとの距離感や関係構築がなかなかうまくできない人間だった。



先日、ある音声配信を聞いていた。
上の子が同い年で、前向きに子育てに励む様子を発信されているワーママの方で、よく家事の傍ら聞いている。

話の内容はこういうものだった。

年に何回かある、小学生の子どものお弁当の日。
ついつい、「ママもお弁当作るの大変なんだよ」と、子どもに言ってしまい、反省した。
もっとお弁当づくりを楽しんで前向きに取り組まないと。
お弁当が必要なのはその子は何も悪くないのに、嫌な気持ちにさせてしまったと思い、子どもに謝った。


この発信者さんはそのことについてすごく反省と後悔を織り交ぜて話されていたのだけれど、まさに私も、我が子にこういうことをすぐに言ってしまう。

もともと料理やお弁当作りが大の苦手で嫌いだから、つい、しんどいしんどいと言ってしまうのだ。

特に、毎日お弁当が必要な夏休みの苦行度は尋常ではない。
そして息子もまた、夏休みに毎日学童に行くことは嫌で、できれば家でゲームをしたり、動画を見たりしたいと言い続けている。

夏休みの学童は、息子にとっても、母である私にとってもしんどい日々なのである。

学童に送る道すがら、私たちはお互い、
「あ~学童行きたくないな~」
「私もお弁当作りたくないな~」
「せみがうるさいよね~」
なんて言いながら、道中で気持ちを吐き出しつつ、学童が近づくにつれ、まぁそんなことを言っていても毎日これを続けなければいけないよねという現実を諦め混じりに受け入れ、
「ま、今日もお互い頑張ろうぜ」
という形で玄関で別れる。

そんなことを続けて夏休みが終わる頃、息子が私に言った。

「あ~やっと学童漬けの毎日が終わるわ~。
母ちゃんも地獄の弁当づくりが終わるな!お疲れ!」

なんというか、お互い嫌なことをやり切り、苦しい日々を乗り切った戦友のような感じで、固い握手を交わすような雰囲気になってしまった。

だから、愚痴をこぼしてしまっても、こんなノリになることもあるので、あまり責めないで下さいね~というようなつもりでその方にこのエピソードをコメントしたところ、放送内でお返事をいただいた。

「息子さんとタッグを組めている感じがすごくいいと思った」
「息子さんからすると、お母さんが近い存在でいてくれると感じているのが伝わってくる」

それを聞いて、すごく私は驚くとともに、少し安心した。

そう、私はいわゆる母らしい母ではない。
慈愛にあふれた母らしい関わりはできていないかも知れない。
それがずっとコンプレックスでもあり悩みでもあったけれど、いわゆる

「母と子」

というよりは、一個の人間として対等に関わっている感覚がある。
それをその方は「近い存在」と表現してくださった。

子どもが元気になるような、好物のつまったおいしいお弁当を楽しく作って、いつも笑顔で送り出せる母にはなれないけど、一緒に「しんどいけどお互い頑張ろうぜ」と嘆きながらも日々を乗り越えることはできる。

私の関わり方が我が子にとって、どんないい影響や悪い影響があるのかも分からないけれど、自分にできる形で、我が子と向き合い、やっていくしかないんだろうなと励まされた。



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