竹田青嗣『超解読 はじめてのフッサール』について



「「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「.措定」、つまり前提を中止する。そしてすべてを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在のすべては、自分の「意識」に生じている表象である、ということになる。
この「意識表象」を自分で内省し、そこでいかに「世界」が「構成」されているかを記述する。これが一般的に言われている「現象学的還元」の方法の概要である(「事象に帰れ」とは、「内在意識」ですべて考えよ、ということだ)。
(『超解読!』、21頁)

この箇所は竹田が、『現象学辞典』(弘文堂)の「現象学的還元」の項(渡辺二郎による)を要約したものをさらに言い換えたものである。
この要約したもののなかに「現象学的残余としての「純粋意識」の領域が残される、という箇所がある。竹田はこの「純粋意識」を「内在意識ですべて考えよ」というように、とくに断りもなく言い換えている(21頁)。そしてこの「純粋意識」のちに、二つの大きな要素がある(23頁から24頁)

「「実的内在」・・・意識体験としての「知覚」「想起」「想像」などの作用。「コギタチオ」という。
「構成的内在」・・・「実的内在」から構成された意識内での「対象」。
わかりやすくいえばこうなる。いま「赤くて・丸くて・つやつや」(知覚作用)を見ている。これが「実的内在」(コギタチオ)。ここから「これは一個の赤いリンゴだ」という「対象意識」が構成される。これが「構成的内在」。
(『超解読』、24頁)

まず一つ、「赤くて」といったものは「射映」(『イデーン』)であり、コギタチオではない。
つぎに、竹田は「構成的内在」を『理念』の「講義の思索過程」の章のタームだと言っているが、「明証性のうちに構成されるほんものの与えられ方という意味での内在」(『理念』、作品社、7頁)を「長いので」と言って作られたのが「構成的内在」という語である(『超解読』、37頁)。

ここらでフッサールによる記述を参照する。
まず『理念』のなかに、「赤くて・まるくて・つやつや」みたいな話は無い。https://note.com/good_deer169/n/n2f62a99afc3aで紹介したように、フッサールは「聖騎士ゲオルグ」や「一軒の家」という「対象」は明証的に与えられているという。
このあたりは『理念』講義より以前の『論研』でも同様のことが言われている。

「また、対象が全然実在していない場合も、あるいは全然実在しえないとしても、もちろんそのような体験はそれ自身の志向を伴って、意識のうちに存在しうるのである。このような場合でも対象は思念されているのであり、そして対象を思念することが体験である」
(『論研 3』、みすず書房、170頁)
「他方、志向された対象が実在している場合でも、現象学的観点では、上述したことになんの変更も加える必要はない。意識にとっては、表象された対象が実在していようと、もしくはそれが虚構されたものであろうと、それどころかたとえ背理であるとしても、その所与は本質的に同じものである」
(上掲書、171頁)

このようにフッサールは、「対象」をその述語(≒性質、属性)の束に解体したりはしていないし、ましてや「表象されたものの存在についての確信を形成する偶発的な措定性格はこの場合度外視してもよい」(同上)というように、「対象確信」(竹田)に竹田のように頓着していない。竹
「聖騎士ゲオルグ」や「一軒の家」という「対象」が意識に現れることが明証的だというフッサールの発言を「よくわからない」と言ってしまって放ったらかしてしまっているのは、竹田が「現象学的方法の基礎」として、「「知覚」を知覚できる」こととしてしまっているからだ(『超解読』、37頁)。そして知覚への知覚、というより知覚への反省は、竹田のデカルト主義的な、確実性重視的な態度から、不可疑性によって主導され、どんどん上滑りして、そのために「赤い・丸い」といった射映という体験が、射映するもの(リンゴ)抜きに語られるようになる。「赤くて、丸くて」という「コギタチオ(?)」が「実的内在」である(『超解読』、24頁)、というように。
また、「知覚作用」というならこの場合は、知覚への反省がコギタチオ(意識作用)であり、「赤くて、丸くて」というのはコギタチオではなくコギタートゥムである。しかし事物射映への反省をコギタチオと正当に書いてしまうと、事物射映はその反省における「対象」となってしまう。それだと竹田にとっては具合が悪い。だから「赤くて、丸くて」というのは、不可疑のものという意味で「コギタチオ」と呼ばれるようになっているように思える。
そしてまた、「赤くて、(そして)丸くて」というのは連言であり、この連言を可能にする接続詞(and)はそれ自体で「知覚」ではない。
また、日本語であるがゆえに略記されているが、「ist rot」は「赤く在る」「赤で在る」ということである。
この連言を可能にしているのは、リンゴへの志向だろう。しかし竹田によれば、「これはリンゴだ」というのは「構成的内在」であり、「実的内在」からの「構成」を通して成立するもんである。しかし竹田の言う「赤く在り、丸く在り」という連言が、記述のうえからリンゴという「対象」を消し去っただけで在り、リンゴへの志向に支えられていないならば、「赤く在り、丸く在り」という連言は、何について赤いだの丸いだの言っているのかわからなくなる。そしてそうなれば、なぜ竹田の言う「実的内在」から「これはリンゴだ」という判断ができるようになるのか、これまたわからなくなる。或る一定時間以上は持続する「対象」への志向のなかで、その「対象」について、「赤くて丸くて」と言っているわけだ。それはすでにリンゴという「対象」に作用が向かていってしまっていることを不可避的に前提している。竹田のいう「構成」を待つまでもなく。

また書くかな。『イデーン』やザハヴィや渡辺二郎について書けなかったし。

正気か?