【感想】大滝瓶太『その謎を解いてはいけない』~語ること/語られることについての小説として【小説】
界隈(?)で話題の一作、大滝瓶太氏の『その謎を解いてはいけない』(実業之日本社)。「異常本格推理」という物々しいキャッチを引っ提げての初単著とのこと。
一体どんな小説なんだ……と恐々手に取りましたが、「第一話 蛇怨館」から「キャラクター」たちの軽快なやり取りに声を出して笑いました。深刻な(?)推理場面でも引くくらいに「ふざけ」ていて、なるほど、これは「ピュア」な読者は怒り狂ってAmazon低評価レビューを投稿してしまうかもしれないな、と納得。(この小説を読んで(低評価だろうと高評価だろうと)レビューや感想をインターネットの海に投げ込むのって、何というか、凄い勇気ですよね(ブーメラン)。いや、この小説はそういう「小説を読む」という「現実」の行為をテクストが吞み込みすらする(それを目論んでいる?)小説だから、もし彼らが意識的にやっていると考えれば、非常にクリティカルな行為なのか……?(()の中で()使いすぎでは?(「フランドルへの道」じゃないんだから)))
まあ色々な感想が出てくる作品だとは思いますが、私としては「語ること/語られることについての小説」として、非常に楽しく読めました。
この小説の語りは、三人称のいわゆる潜入型ですが、ここは「主人公」の小鳥遊唯に焦点化され、彼女の一人称で語られている部分(少なくともそうらしい)。オッドアイや珍しい苗字という生まれつきの「記号」に起因する境遇を嘆いているシーン、ともちろん読めますが、それに加えてそもそも小鳥遊は実際に「フィクションの世界の人間」なんですよね。「現実」に存在する人間ではない。彼女は初めから「フィクションの世界の人間」らしい「記号」を背負わされている、そういう運命にある「キャラクター」に過ぎないのです。
いや、「初めから」というのは正しくないかもしれない。何故なら彼女は「初めから」存在している人間ではないから。彼女は、その存在を語られることによって、初めてそこに立ち現れ、そして次々に運命を背負わされていく。
小鳥遊が「虚構内現実の存在」として抱く言葉への不安は、「現実内虚構の存在」としての不安と重なり合うのではないでしょうか。小説の「登場人物」たちは、言葉に囚われている、もしくは言葉そのものと言えます。彼/彼女らは言葉によって語られることで、常にその存在を更新され続ける。しかも、それは彼/彼女らの「現在」に対してだけ起きることとは限らない。「初めから」存在しているわけではない彼/彼女らにとっては無限にありえたはずの「過去」も、語られた瞬間にその一点に収束されてしまう。それが耐え難い「黒歴史」だったとしても、自身で語り直す/書き換えることは不可能なのです。
そんな傍若無人にも見える「語り」を司るのが「小説家」。彼らの「小説を書く」という営為を「謎を解く」という営為——ともすれば馬鹿にされやすいミステリーというジャンルが培ってきた伝統芸能と重ねてみせたところに、この小説のミソがあると個人的には思います。作中に登場する小説家・一二三=著者、みたいなあまりにピュアッピュアな読み方をするつもりはないですが、以下、とても大事(個人的にも好き)なセリフです。
しかし、そこには絶対的な差異もある。
そうなると「推理小説」というものは一つの矛盾を抱えるジャンルということになります。「推理小説」は、その虚構内では「探偵が謎を解」いて一つの結論を出すという展開を求められる。しかし、「小説(家)」というものは、テクストレベルにおいて、「謎」を保留し続ける必要がある(それこそ「小説家」である)。この難題に、「(推理)小説家」たちはどのように立ち向かっていくのか……「推理小説」である『その謎を解いてはいけない』が「解き続けながら解くことを保留し続ける」謎の一つは、そんなところにあるのではないでしょうか。
「主人公」である小鳥遊唯は、「探偵」としての役割を担っています。そんな彼女の犯人を追い詰める「探偵」としての言葉ももちろん大事ですが、個人的にはラストシーンで涙を流しながら放つ言葉が好きです。言葉に恐怖すら覚えていた小鳥遊が、「田中友治」を「暗黒院真実」と語り直した瞬間に立ち現れる世界。そこに接続された未だ解かれざる無数の「謎」を、「小説」を読んだ私は「解き続けながら解くことを保留し続け」たいと思います。私にとっての読書の面白さって、そういうところなので。
「ふざけ」ているようで本当に色々な要素が詰め込まれた小説で、一回読んだだけでは拾えていないことが沢山あります。特に、私は著者が影響を受けたというピンチョンを一作しか読めていないので、その辺りをしっかり学んでからぜひ再読したいところです。それにしても現代文学に詳しい作家さんがこういう一般文芸に出てくるのは嬉しいですね。声出していくぞ!