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「哲学と宗教 全史」を読んで

禅語との出会い

高校生の時、自分にとって大きな挫折、孤独をいっぺんに身に受けた。
親しい友人も近くにおらず、親にも打ち明けられず、近所の精神科は未成年の診療を受け付けていなかった。

ある日の学校帰り、不眠が続いてふらふらした足取りで、駅前の本屋のドアを開いた。
「一体どの本なら私を助けてくれるのだ」と、乾いた血眼で自己啓発本コーナーを漁り、手当たり次第にページをめくった。
「苦しい時こそ笑いなさい」とか、「とびきり時間をかけて化粧をしなさい」とか、詳細は思い出せないが、いやに残酷な命令をする本が多かった。こんなに頑張ったのに、これ以上頑張れというのか。何も知らないくせにえらそうに、と絶望した。

帰り際に手に取った「心がスーッと晴れる 一日禅語」は、気取らない表紙の小さな文庫本だった。
ぱっと開いたページには「お茶をゆっくり飲みましょう」や「雲を眺めましょう」という文があり、気張った生活によって心の隅に追いやられていた、かつての心穏やかだった日々をようやく思い出せた。
最近は、駅の暗いホームで線路を見つめて「あと数歩踏み出せばこの苦しみから逃れられるかな」などと考えていたが、そういえば、私は優しい風味のあたたかいお茶がゆっくり喉から落ちる感覚が好きだった。流れゆく雲を見て、日々の風の流れを感じるのが好きだった。
この日からこの本は、私の世界になった。

本の概要

「哲学と宗教 全史」は450ページ以上あるずっしりした本だが、いわゆる理系の私でも非常に読みやすかった。
人類の誕生から始まり、各哲学や宗教の誕生、背景、違いなどを体系立てて説明している。
人の名前を覚えるのが苦手、という安直な理由で世界史を避けていた私でも、関連づいた背景情報によって情景の想像ができ、ストレスなくさらさら読み進めることができた。
哲学や宗教を学んだことがなく、最初にざっと全容を理解したい、という初心者に非常におすすめできる。

感想

上述のような経験があるにも関わらず、私は宗教に対して否定的だった。
記憶の中では、母親の友人が新興宗教にはまり、母親は「笑顔に人間味がなくなった」と怖がっていた。また、自分の好きなドラマは、信心深いキャラクターを科学的な知識を受け入れることができない野蛮人として描いた。
自分は理系なのだから、科学的根拠のみを信じる論理的な人間である、とずっと信じて疑わなかった。

本の読後では、どうして宗教がこんなにも栄え、戦争までをも引き起こしうるのかを少しながら理解できた気がする。
自分は今まで当たり前に毎食ご飯を腹いっぱい食べられたし、あたたかい寝床につけたし、その中ですら不満を見つけ文句を言っていた。
今までの自分の苦しみを否定する気は全くない。しかし、文明が発達するまでの長い過程の中で、あまりに辛い夜を越すために、何がしかの希望が必要だったのだろう。そして、そのような夜が幾度も続いて、各地で様々な「世界」の解釈が生まれたのだろう。よすがとしてきたものが否定されたり、利用されたりした時、人はどれだけ絶望するだろうか。
打ちひしがれて、本屋で種々の本を手に取りながら自分の解釈が一番耳障りよく文章化されていた書籍を探していたあの時間は、信仰対象を探す行為にほかならないのではないか。

こう考えると、今まで少し興味があった哲学・宗教やその背景である世界史にもがぜん興味がわいてきた。
自分の狭い視野では、科学的な知見のみに価値があるとずっと考えてきたが、自分の中でも矛盾の解明をはじめとして、時間をかけてこれからの人生を拓きたい。




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