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安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲー

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲー

引き続き、安部公房の『壁』論を書いて行く。『壁』が如何に問題作かどうか、ということは、その問題作、と言う意味合いの度合いを述べてきていると思うが、今回で、この『壁』論も終わりになる。つまり、総括ということになるが、重要箇所を今回も引用し、その実体を把握して置きたい。それにしても、安部公房が、この小説で、27歳で芥川賞を受賞していることは、非常に驚きである。それでは、考察に進む。

それでも彼は壁から目をそらすことができないのでした。かえってその暗さに魅せられて、もっと奥深く見詰めようとするのでした。旅人が、行けば行くほど地平線に魅せられるように。そしてその旅人の眼に地平線がたえず入りこみ、ついには眼の中に地平線が芽生えるように、いつか壁は彼の中に吸収されはじめているのでした。

『壁』/安部公房

壁というものの本質を言い当てているが、それが、「旅人が、行けば行くほど地平線に魅せられるように。そしてその旅人の眼に地平線がたえず入りこみ、ついには眼の中に地平線が芽生える」という、一定の箇所を見ていると、地平線さえ壁の様なものだと言う、思考の深度は非常におもしろい。確かにそう考えれば、地平線さえ壁であると、そのイコールを認めなければならない。この地平線の箇所は、満州での体験が基になっていることは明瞭だが、やはりこういった発想は、とても日本で生まれて日本で死んでいった小説家にはできないものである。壁の本題は、ここにおいて、ようやく形を現出させることになる。壁が思考を停止させるだけでなく、壁と向き合うことで、不可能の無限増殖が行われ、ついにその無限増殖が小説の方法論にまでなると言う発想、安部公房文学の神髄ではないだろうか。安部公房の独白の様にも聞こえるこの引用箇所は、そういった意味合いにおいて、最も重要且つ、最も安部公房文学の根底を吐露しているという点において、おもしろい。

そして最後の箇所。

見渡すかぎりの曠野です。
その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。

『壁』/安部公房

この、「成長してゆく壁」と言う言葉、この小説の最後に書かれたこの言葉、これこそが、小説『壁』が本当に言いたかったことなのである。壁と向き合い、壁を越えられない自己を見つめ直し、やがて、壁と言う不可能性が、小説執筆の方法論になるという、何度も何度も述べて来た内容が、文章として結実した箇所である。成長していく、つまり、壁での無限が、この『壁』以降、死ぬまでテーマとなった、抗いが成長であることで、小説執筆が無限になされるということの明証が、言葉になっている。我々は、日本文学史の金字塔の一つを、この「その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。」と言う言葉に見るのである。誤魔化しなどではなく、安部公房にとっての真実の公言がなされ、我々はただ、茫然と立ち尽くし、その成長を見ていくことになる。『壁』以降、主題はひたすら、この成長に準えて、進んで行く。小説執筆の成長が、この「成長してゆく壁」、なのだから。

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲー、もここで終わるが、3回に渡って述べて来た安部公房の『壁』論であったが、それなりに形になった様に思われる。結句、『壁』の主題は、壁と言う困難に向き合い、そこから『壁』以降無限に生み出される小説が、「成長してゆく壁」、として明記されている、と言うことに尽きるだろう。しかし、芥川賞作品として、この完成度の高さは異常である。この後、安部公房は、様々な賞を受けることになるが、最初の賞の受賞が、この『壁』であったことは、非常に良い手順を踏んでいる様に思う。まさに、問題作として、本当に良い意味合いでの、問題作として、壁を見る安部公房が浮かび上がった問題作であった。『バベルの塔の狸』、『赤い繭』を論じることはせず、『S・カルマ氏の犯罪』のみで、安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考ー、を終えることになるが、充分に考察できた様に思われる。この次からは、『壁』以降の小説を、『壁』で得たテーマを基軸として、論じて行く予定である。

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