安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅠー
安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅠー
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安部公房論を、30論書く予定である。なかなかに、険しい作業だが、今自分が出来得る限りのことを、遣ることが生きることだとすれば、その作業の先に、安部公房文学も蘇生するだろう。今回は、安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅠー、と題したものである。全集を買ってあるので、その最終巻、十五巻から、必要な文章を抜粋して、安部公房の方法論を、一つ、探求したいと思う。この、小説創作の裏を取る作業というものは、大変面白い、批評である。まさに、生誕100年の安部公房が、何を方法論としていたか、最終巻から見える、その方法論の一側面を、抽出してみたいと思う。
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まずは、安部公房全集の最終巻の、『一寸後は闇』から。
ここには、ありとあらゆる、安部公房の執筆方法が記載されている。ぼくが私小説を書かない理由を見れば、「作品を一つの存在たらしめれば」、だとか、「過去一般に還元されてしまう」だとか、「ぼくもときおり、その深い過去の闇に向かって、フラッシュをたいてみる」と言った発言は、安部公房文学が、自己と作品との距離を作っていることを、明白にしている。私小説ならば、作家と小説の距離は近いが、安部公房文学は、その対極を行っているのだ。云わば、安部公房の姿勢は、作品と距離を取ること、に他ならない。飽くまで、作り物の世界なのである。また、そういった中でも、『燃えつきた地図』は、例外であり、ーつまり私小説的でありー、「ぼくもときおり、」と言っているのはその為なのである。
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また、『周辺思考』にはこうある。
こういった感覚が、全ての人に共通するとは思われない。ただ、安部公房においては、こういった文学的発想がある、ということを、この文章は明証している。物事の捉え方の問題だと思うが、こういった、当たり前の不可思議に着目し、それを文学に仕立て上げるから、安部公房の文学は面白いのである。こういった発想は、医学部を出ている一種の理数的事実を基にして、まさに利用して、小説を書いている、という事が分かるし、発想の起源が看取出来る。凡そ、一般的には、人々はこういった現実作用を、文学的発想に置き換えることはないだろう。だからこそ、安部公房文学は面白いし、興味をそそられるのである。芥川賞作家の、並々ならぬ発想を知れて、やはり安部公房全集を買って置いて良かったと、再度思うが、何れにしても、こういった側面が、執筆の方法論の一つだと、安部公房は述べている。
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『一寸後は闇』と、『周辺思考』、において、述べられた安部公房の小説執筆方法論ではあるが、こういった方法論の一側面を、安部公房が何故、吐露したのかは、分からないし、想像も付かない。しかし、実に文学に対して誠実な態度であるし、理系ならではの思考であると思われる。小説との距離や、周辺の(ここでは、自然界の法則)世界に対する、文学的取り込み方は、非常に精緻であり、科学的である。何故こうも、安部公房の小説が変わっているのかは、この方法論の一側面を読めば、じわりと、理解出来る様になるだろう。安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅠー、として、まずは述べてみたが、そのⅡ、そのⅢ、と続いて述べたいと思う。またしばらく、この全集の最終巻を、読み込んで、論を運ぶつもりである。