安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅡー
安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅡー
㈠
安部公房の、方法論の確認のため、また、十五巻から文章を引用し、なるべく新しい方法論の一側面を見出したいと思う。こういった作業を地道に追い込めば、方法論の総体化が抽出できるであろう。そのⅠだけでは見いだせなかった,新しさを期待して、論を運びたい。今回取り上げるのは、『独創と普遍』、『仮説の文学』、『時をたがやす』の3つ、からである。ここにもまた、方法論が見受けられる。舞台裏を知るために、なるべく適切に、文章を抜粋しようと思う。
㈡
まずは、『独創と普遍』、から。
恐らくここでは、「これらの嘘も、すべて主題とかかわりあった、方法なのだ。」という箇所が最重要であると思われる。嘘というものが方法であるというのは、何も小説家全てに言える訳ではない。寧ろ、安部公房特有の方法論であろう。例に挙げられたものは、SFらしき体裁を頗る帯びている。しかし、当然のことだが、安部公房の嘘とは、当然、小説を書く時に、嘘、というものが、方法足り得る、ということを言っているのであって、飽くまで小説家としての話ではあるが、それにしても興味深い文章である。この、『独創と普遍』には、明確に安部公房方法論が述べられていて、面白い。方法論の一側面として、表出した、嘘という方法論、という安部公房の方法論を、まずは、ここに記して置く。
㈢
次に、『仮説の文学』、から。
引用した文章内容から言えば、「この論法からいけば、空想科学小説は、怪談のたぐいとは、はっきり区別されなければならない」という箇所は重要である。しかし、続きを読んでみると、こうある。
この様に話がまるで逆転してしまっていることが、非常に興味深い。つまり、「科学と妖怪の世界」が、「むしろ崩壊しつつある、この日常の秩序の反映である」という仮説は、安部公房文学の基盤となって、仮設されているのである。ここには、文学に対する安部公房の思考が反映されていると言える。こういった仮説は、安部公房が仮説としたものが、現代では、通説になってはいまいか。つまり、安部公房の、文学における先見性が感得出来るのであって、云わば、文学は、日常と非なるもの、であれば、それこそ、秩序崩壊にあたって、合理的に証明される、と言えるだろう。秩序の崩壊、これこそが、現代の粗製乱造の予知であったとすれば、現代の通説を、既に仮説と位置付けている安部公房は、天才の域である。文学は、安部公房の予言によって、現代文学が、そうなった訳であるから、この『仮説の文学』という文章は、現代的に最重要であると言わざるを得ない。
㈣
最後に、『時をたがやす』、から。
ここでは、小説というよりも、大きな意味合い、思想や芸術的な手段にまで、論が及んでいる。時間の空間化を、「技術的な方向」と「思想、ならびに芸術的な手段」の二つに分けて、文章は進んでいる。『時をたがやす』とは、時間の空間化のことを言っているのであろうし、この着目眼を、安部公房文学の大きな視座の一つとして、取り上げておくべきだと思われる。例えば、小説『壁』も、こういった文章に触発されれば、空間的な壁だけでなく、時間的な壁の事も含蓄されていた、と認識するべきであろう。時をたがやすとは、時間的な壁に手を当てて、じっと未来を考える様な行為でも良い。そこに、安部公房の脳内で、芸術は反芻され、見事に形作られるのである。こういった意味でも、『時をたがやす』という文章は、安部公房文学と密接に関わっていると思われる。
㈤
安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅡー、として、3つの文章を取り上げて論じてみたが、どうだっただろうか。自分にとっては、全集最終巻を読んでいて、大きな発見と手ごたえがあった。特に、最後の、『時をたがやす』に至っては、安部公房文学に満ちている、一つの思想までが表現されているように感じた。方法論の側面としても、この3つの文章には、多々見られる重要箇所が、有ったように思われてならない。安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅡー、として論を運んだが、非常に収穫の多い時間だった。これにて、論を終えようと思う。