アフリカの炊き出しボランティアから考える、現代の自己責任論
「自ら考え、自ら行動し、その行動に責任を持て。」
中学校の時に先生がホームルームでよくいっていた。うちの学校のモットーだ。
通っていた私立の中学校では、中学生にはおよそ不相応な程の自由が与えられており、自分と周りはそれを一種のステータスのように感じていた。
スマホ自由、通学服自由、髪型髪色も自由。買い食いも自由で、学校帰りにはみんなでカラオケに行き、サイゼリヤで時間を潰した。
自分達は自由になんでもできるのだから、何か失敗したとしたら完全にそいつが悪いし、自業自得である。周りのせいになんかしちゃいけない。
本気でみんなそう思っていたと思うし、当然自分もそうだった。
ベタベタな手で辛味チキンを頬張る僕らには、得体の知れぬ自信がみなぎり、全能感が溢れていたことだろう。
8年後、僕はアフリカのとある貧困地域でボランティアをやっていた。
支援団体の人の家で住まわせていただく代わりに、週3回炊き出しの手伝いをしていたのだ。
彼らの中学校は、僕が知っているそれではなかった。
学校というよりは託児所といった感じで、大人が昼働きに行く間、子供たちが襲われないよう集まって自衛するための場所だ。
当然授業なんてものはない。
彼らの多くは両親の仕事を引き継ぐか、都市部に出てUberドライバーになるか。これはまだいい方で、約半数の子供は行くあてがなくストリートチルドレンとなり、犯罪と薬物の世界で生きていくことを強いられる。
支援団体が炊き出しを行わなければその日の昼ごはんもないので、お腹を空かせた彼らが毎日長蛇の列を作っていた。
油でギトギトのピラフとパサパサな細いチキン、りんご半分が彼らの食事であり、僕らの目を掻い潜って2回並ぼうとする子たちも多かった。
端的に言うと、自分が嫌いになった。
典型的な自己責任論者だった僕は、自分の現状を社会の仕組みなどに帰責させる人が心底嫌いで、軽蔑していた。
しかし、彼らは自分の行動に選択権を持てていたのだろうか?自ら考え、行動できていないのならば、その結果に責任をとるいわれはないのではないか。
彼らだけじゃない。僕らだって、程度の差こそあれ行動が制限されていて、完全に自由には動けていないはずだ。それは、お互いの自由や人権を尊重するこの社会では当然の摂理なのだから。
この発想の転換は、自分の中に凝り固まっていた「自己責任論」像に、大きな疑問を投げかけたのだ。
一旦生じた火種はなかなか消えることがなく、暇さえあればそのことについて考えるようになったし、今でもそれは変わらない。
さて、今現在の自分の、この問題に対する一応の答えを提示しておく。
結論から言うと、少なくとも僕自身は「自己責任論」を採用し、自分の行動については責任を持っていきたいと考えている。
自責思考で生きることも、他責思考で生きることも、それぞれにメリットとデメリットは存在し、どちらが正解とは限らない。
自分の行動で100%将来を切り開いていけるわけではないが、自分の行動や現状が100%社会や運で決定されているとも限らないからだ。もちろん、「運」というものをどう定義するかにもよるのだが。
そんな中で、自分が自己責任論を自分に対して採用する理由は二つ。「そう思っといた方が面白そうだから」であり、「そう思わないと損をすると感じた」からである。
前者について特に説明はいらないだろう。どんなことでも自分のプレイング次第な自由度の高いゲームと、全てがサイコロの出た目で決まる運ゲーと。どちらをプレイしたいかという話だ。
昔から、「人生ゲーム」のような遊びがあまり好きじゃなかったのだ。
後者についてだが、そもそも「運ゲー」という概念が日本で流行って得をするのは誰か。考えたことがあるだろうか。
日本だけじゃない。マイケル・サンデルは「実力も運のうち」という本を出版し、学歴や社会での成功は全て運によるものだと語り、多くの支持を得た。
中国では寝そべり族といわれる若者が増え、頑張ることを放棄して、ただ惰性に生きる生き方が大流行している。
方法論的全体主義と社会学の世界で呼ばれるこの思想は、格差が可視化されたS NS社会で今後さらに注目されていくだろう。
しかし何よりもここで大事なことは、このムーブメントで最大の恩恵を受けるのは、他でもない既得権益層だけであるという紛れもない事実だ。
彼らにとって一番怖いのは、格差から生じる負のエネルギーに燃えた、下克上を狙う下の層の人間たちだ。
革命を起こし社会を変えてきたのは、いつだって労働者などの下層階級の人間であり、この不平不満をどういなすかは、上層階級の人々にとって永遠の課題とも言える。
テレビの中で、「たまたまうまく行っただけなんです。恵まれた環境だったので。」と控えめに微笑む成功者を、謙虚だなんだと褒める人。一度なぜ彼らがそう対外的に発言しているかを考えてみてほしい。
もちろん、成功者本人も、実際にそう思っていないこともないだろう。
成功には多大な運要素がつきまとうし、一流を極めれば極めるほど、その割合は大きくなるからだ。
それでも、彼らにはそう発信するメリットが大きく、自身の立場の保全のために合理的であるという事実は無視してならない。
「俺は誰の力も借りず、一人でここまで成功してきたんだ。」と語るギラついた成功者の方が、よっぽど我々にとって親切であり、成功してなお高みを目指し続ける謙虚な存在と言えるのではないだろうか。
炊き出しにいつも先頭で並んでいたアニーは、「大きくなったらエンジニアになって、兄弟の生活を支えるの。」と語っていた。
その目は純粋で、強く、輝いているように見えた。