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純文学っていう言葉が好き【第172回芥川賞より】
日本時間の昨日、芥川賞と直木賞の受賞作が決まった。
実はリアルタイムで、ニコニコ動画の授賞式配信を観るぞーと心の底から待ち望んでいたのですが、結論を言うとそれは叶わず。残念。
定時ダッシュを決めるイメージトレーニングはバッチリだったのですが、外圧つまり、自分ではどうしようもない仕事によって、見事に打ち砕かれたのである。もはや、午後からトンズラという名の有休を・・・。(自主規制)
いくつかの例をお借りして語るなら、営業先から帰社したところ、山積みの仕事のパスが来たとか。帰ろうとしたら、デバックヘルプを後輩が懇願してきたとか、何かそんな感じなのである。
もっと効率よくやろうぜと説明しても、私の説明力不足なのかまずイマイチ理解されない最近。
「うーん。それって必要?」
「え、だから、最初に言ったじゃーん。」ってことが私の周りで往々にして起きてるので、もはや未来予知ができるようになったかも、なんて自惚れ妄想族になっています。
さて、いつになく長い前置きを回収して本題。
直木賞より芥川賞好きになったのは
それは、この本を読んだからだと思う。
そしてこの本のあとに読んだこちらも。
見ないふりをすればいいのかもしれない。 気付かないふりをすれば、そのままですむのかもしれない。 ただ、家族という身近なものだからこそ、かき回せずにはいられないのだと思う。 読みながら自分の父親と自分の育ってきた環境、そしてそれを取り巻いてきた自身の家族を何度も何度も回想した。 私の親は私以上に愛を求めている、この本からおぼろげに思っていたその想いが、核心へとせまった。 家族だからこその辛さ、儚さ、虚しさすべてがこの本には詰まっていると思う。 非常に暗い作品、だからこそいい。
ずるずると言葉尻が次の言葉をつかむような、蔦に覆われた屋敷の中で一人、孤独の中で文字を追っているようなイメージングすらできる。だから、それこそが、純文学なのかもしれない。
純文学という言葉が好き
最初は、この純文学という言葉自体が好きだった。純粋な文学、アーティスチックな格好良さ、知っていると格好いい、美しい感じ。
しかし、それだけじゃなくなったのはこの作品に出合ったからかもしれない。
読んだときに20代だったこともあって、すごくメッセージ性を感じたのを今でも強く覚えている。純文学という言葉に踊らされていた自分からの脱却を感じたのだ。
期待したのは
実は、受賞に期待したのは、こちらだった。
読書Youtuberの方が、紹介されていた作家さんで、何となく気になって推している。タイトルも好き。
今回受賞した作品から
まだ読んでいないけれど、読んでみたいとは思う。
余談
最近本の扱いに困っている。愛しの本だが、わざわざ紙で日本から取り寄せるのを続けるのか、電子にすべて切り替えるのか・・・悩ましい。
でも結論は決まっているのである。ここで紙の本を持っていても、日本に帰ることになった時には、手放さなければならないのである・・・。
最後までお読みいただきありがとうございました。読書エッセイも#3まで続いています。明日は#4を書きたい。
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