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#9 大学院で教授とモメて中退→奇跡的な就職に至ったINFJ(提唱者)の私。

#8 の続き> (むかしのお話です)
卒業研究の単位に必須の論文を未提出のまま・・
担当教授のいる大学院に進学できた私。
今回は大学院に入学後のお話です。
ちょっぴり長文です。



1.大学院1年(前期)

◆(続)卒業研究◆

とある分野で、担当教授は第一人者であることが徐々にわかってきました。私自身は研究発表しないけれど、春休み期間にあった学会には遠出のドライブ旅行を兼ねて出席してきました。
学会での先生がどんな立場かを感じ取れました。

そして、急きょ変更してまで私にやらせた研究テーマこそ、ニッチだけど担当教授が第一人者たる分野でした。
(だからって、それだけであんなにも突然、
 卒業研究を無理に変更させないだろう・・)
・・ということも察知しました。多分どこかから研究資金が出ている事業なのだろう…と。

大学院の1年はそれなりに授業が大変です。教授も「今のうちに・・」と4月早々から指導の手を緩めませんでした。それに先生は新たな4年生の担当もしなきゃいけない。

そのため5月頃までに私の追加実験を終了させる予定で、私もガガガ~っと一通りのサンプルを作製してテストデータを採取し終えました。

(データを整理するイメージ写真)

◆研究室のコミュ活を。◆

この大学は5月末から6月初めに学祭があった。
普通に進級して来る者、同期生の留年組で研究室に入ってくる者、卒業留年した者などが我が研究室に4年生として在席しました。4月からの新体制に慣れてきたこともあって5月は学内コミュニケーションが活発な時期。

大学院生は私の上に誰もいなかったので、私たち同期生の院生が、こちらの工学(作業着)研究室も、もう一方の化学(白衣)研究室も最上位でした。

実は珍しく色々な交流があって、我々の学年と一つ下の後輩学年とは研究室が違っても、とても風通しが良くて仲良し。

その頃の私はバリバリのINFP(仲介者)であり、HSS型HSE(刺激を求める外向的な繊細さん)の気質も多分に発揮。後輩たちや先生も含めて麻雀が交流ツールでした。カラオケもブームが来ていてよく皆で行きました。
(苦痛な研究生活を楽しく乗り切りたいな・・)
・・と、そんな想いでした。

私は大学祭の時期に身内の研究室対抗イベントを主催しました。
(教授や准教授など先生も巻き込みました。)

相手の白衣研究室の人間と協議して以下の2種目。
 ・ソフトボール  ・ボウリング
(結果は1勝1敗でした)
上下関係や室間の隔たりがさらに解消され、この企画は成功♪

(ライバル研究室との対抗戦イメージイラスト)

◆タテコン◆

私がこの大学に入学した2年後、学部再編によって2年下の後輩たちは全く新しい大学の受け入れ態勢で入学した人たちでした。
(私もスライドで大学院に入学したと言えど、
 学部名も大学院の態勢も変わっていました。)

そんな学生が3年生になり、私の時にはなかったタテコン(同じ分野の学科内で学年の垣根をこえた交流コンパ)が開催されたり、我々院生と3年生が授業の一環で企業見学を共にしたりとユニークな機会もありました。

私が2つ下の3年生の顔と名を覚えることはなかなか難しい。ですが向こうは違うのです。それを後にとても実感することになりました。

◆「しばらく待ってて」◆

”いつまで卒業研究の続きをするんだろ!?・・いや、大学院のテーマもこれを深堀りして継続するのかも。どっちにせよ、続きをやってきたこの卒業研究もまだデータ不足のはず。”
(と思うとともに、これからどうするんだろ・・)
と初夏の頃、モヤモヤ気分で教授の一手を待ち望んだ私。

教授とはもっと議論し合いたいのだけど、どうもこの教授はそういうことをしてくれそうにないし(コミュ障っぽい)、私以上に自分の世界をもっている人で、私は放置されてしまうから勝手が悪く感じていました。

授業が本格的になって私もそこそこやることはあるし、他の学生への指導が本格的になって教授も忙しそうだった。

それでも機会あるときに感触をつかもうと尋ねたら・・・「夏休みまで待ってて」と言われました。
(で、待ちました)

夏休みに入ったので、どうするかを教授に尋ねた。
「新学舎への移転の話でしばらく忙しいから、
 研究室が移転したら話し合いましょう。」
・・そう言われました。

実は新しい学舎の半分がこの夏に完成予定で、私たちの研究室は第一弾の移転対象になっており、秋に引っ越しする予定だったのです。
(当時学舎の異なる化学(白衣)研究室は・・
 1年後の第二弾の移転対象でした。)


2.大学院1年(後期)

◆研究室の移転◆

同年10月ついに我々の研究室が新学舎に移転。
1階だった研究室が新学舎では10階近くの上層フロアです。院生の我々には一人一人の席があてがわれて、そこからは海を眺望できる快適さ。

(新学舎イメージ写真)

席は快適ですが、実験をやっている院生はほとんど居室にいない。だけど、私は相変わらず次の展開がわからないままでした。
ようやく落ち着いた頃、教授が来て言いました。
「今までの結果で卒論を書いて。」と。

(えっ!? 深堀りしないの?)
・・と、意外に思い問い直しました。
「あの少ないデータでまとめるんですか!?」
「それでまとめて。」
と、教授が再び言うではないか!!

◆有り余る考える時間が私を”提唱者”に◆

それまでの私は明らかにMBTIの”仲介者”だった。
だがしかし、数カ月も待たされたうえでのこの指示にさすがにキレた私。
(冗談じゃない。あれで論文にまとめろだなんて・・
 5月に言えただろ、
 そしたらもっと文献調査もできた、
 資金提供の事業期間のエンドが近いのか!?)
・・などと思いました。

それ以外に私の中では、初めての論文、まして2学年に渡って取り組んだので、きちっと学ぶべき事は学んで、ちゃんとした論文の呈で書きたいと思ってた。だから・・明らかにデータ不足な状況ではその先に進めないではないか、そんな不満も沸いた。
(”提唱者”っぽい私になってきました。)

こうなると、4年生のときの教授の出遅れ指導や、急なテーマ変更の無茶ぶりまでが思い出されて納得できなくなってしまった。
(もう無理だ。教授についていけない。)
・・そう決めた。といっても・・・
つい先日、後期授業料を支払ったばかりでした。

(頭を抱えるイメージ写真)

もう院を中退しよう、と思った私ですが、特別講義なども受講できるため、3月まではできればいようと思いました。数日後に進行状況を確認しにきた教授には、「あれでは書けません」と執筆を断った。
それから1週間ほど、これからの事を私は悩みに悩んでいました。

また教授が来て何かを渡されて言われました。
「それを見て論文をまとめて。」と。
(私が書けないって言った意味を
 誤解したようだけど・・
 教授が自らまとめた冊子を置いて行かれ、
 ”舐められてる!?”と感じ・・・
 もう我慢も限界だった。)

◆救世主が現る◆

立ち去ろうとする教授を追いかけて、
「こんなので書く気ないのでお返しします。」
と、突き返しました。
(これでもう後へは引けなくなった・・)
・・と、途方に暮れていた時、大の仲良しの准教授(旧・助教授)の姿が見えた。そして、思わず愚痴ってしまった。

「院を辞めるつもりなら・・
 今ちょうど研究職の採用募集があるんだけど・・」
と、准教授が言うではないか。
(えっ、そんな話は初耳だ。
 まだ届いたばかりだという。)

「詳しく教えてください。」と、私は詰め寄った。
准教授が言う募集は地方公務員の研究職の話でした。急な退職者に対応した不定期な募集で勤務先は研究所。翌年4月からの勤務でした。
(自分のペースで一人で・・
 仕事ができる環境があって4月には公務員だと。
 親も反対しないだろう・・と思った。)

ただし、同年この公務員試験を受験した者は対象外とされているそう。院生の友人はダメだが私は受験資格を満たすではないか!!
(私にとってこんな申し分のない募集が、
 このタイミングであるとは・・
 軌跡としか言いようがない。)

約1か月後の12月初旬にある採用試験を受験することにしました。そのときから私は研究室に来て公務員試験の受験勉強をやることに。

(試験勉強する本の積み重ねイメージ写真)

◆就職試験◆

地方公務員の試験といっても、特に専門的な知識・技術を必要とする選考採用なので一般行政試験とは異なり、一般筆記は簡易的なボリューム。専門筆記試験および面接に重きが置かれるようでした。

でも筆記試験を勉強する時間はわずか1カ月しかなく厳しいのは覚悟の上。筆記は他の受験生に勝てなくても負けない程度の点が取れれば良い、面接で勝負!!との覚悟で挑みました。

筆記試験は、まぁ・・五分五分の感触でした。
本当に後日の面接に全てがかかっていると思いました。

(就職面接イメージ写真)

面接日に初めて受験者が6人(競争率6倍)だと知り、どんな人たちかもわかりました。准教授から「先輩が転職受験するかも。」と聞いていた通り、私の先輩が初見だけど・・お二人いました。

その中で私は面接一番手でした。今でもそのとき話した内容を覚えています。就職後の本務の話は”仲介者”の自分が出てました。そして”提唱者”の自分が出て勝負をかけた趣味の麻雀のお話・・幸運にもこれに面接官は食いついてくれました。

(卓台で麻雀をやっているイメージ写真)

当時はまだ賭け事イメージが強く、趣味とはいえ就職面接で麻雀と言うのは挑戦的でした。「ゲームですか!?」と返され、「ゲームでもやりますがここに書いたのは4人でリアルにやる麻雀の事です。」と答えました。

自分の麻雀観で勝負できると思っていた私。麻雀を「自分もやる」と言う面接官に向かってそれを語り、相手を説き伏せた手ごたえを感じました。

(合否結果待ちのイメージ写真)

合否を伝えられたのはお役所が仕事納めの日。採用が決まりました。後に教えて頂いたのですが筆記では優劣をつけがたく、決め手は面接だったと。

大学時代に私が頑張ったと言えるのは、麻雀とドライブとアルバイト。どれをとっても仕事に通じる独自の経験談、世界観を語る自信はあった。

そのため面接で何をピックアップしてもらうか、何が目に留まりやすいか・・その事に私は事前に最も悩みました。麻雀に決めたのは目立つだけじゃなく、転職をねらう先輩たちが受験すると聞いて、ドライブとバイトじゃ”弱い”と思ったからでした^^

◆謝恩会◆

教授とはもう話すこともありませんでしたが、1月2月も研究室には毎日のように来ていました。外部講師の特別ゼミなどもたまにありましたし。

そこで私は4月から担当するであろう仕事の勉強をしていたんです。実は専門じゃなかったのでw 退職した前任者は同じ材料でも化学(白衣)の専門家だったんです。

4年生の両研究室合同の卒論発表会にも参加。その後、教授との件がある私は出たくなかったけれど・・謝恩会にも参加することにしました。
(4年生3年生の後輩幹事が出席を促してきたこともあって・・)

謝恩会は3年生までいたため50人近くいて、今までの2倍規模でビックリ。
工学・化学の両研究室の教授は苦手だけど、両研究室の准教授や助教(当時は助教授や助手)とはとてもフレンドリーな関係でした。だから私はその人たちの隣席に座りました。

(謝恩会のイメージイラスト)

だけど開始後すぐに私は参加しなきゃよかったと思わされました。次年度から卒業研究のスケジュールをリスケして前倒しする、と発表されたから。そのワケも向こうの教授から説明がありました。
(それは私が卒論を出さずに終えたから。
 担当教授も苦笑い・・
 そうアンタの責任でもある。)

ところがビックリしたのはそのあと。
感謝の花束を後輩幹事から先生たちが受け取る時でした。このとき初めて中退する私が先生たちと同じ側にいることを知りました。だから院生の中で私が先生の隣りに座る配席だったと。

司会幹事に促された私も、恐縮しつつ花束を受け取りました。
「追い出し会ならわかるけど・・
 謝恩会なのになんで?」と後で尋ねた私。
「対抗戦もやってもらいましたし日頃から・・
 こちらの研究室も気にかけて下さってたので・・」

(こう言った幹事は化学研究室の4年。
 4月から工学研に来る隣りの3年生も頷いてた。)
「そんな風に思ってもらえてたとは・・
 こっちが感謝だよ、ありがとう。」


3.終わりに・・

こうして私の大学院生活は幕を閉じました。不完全燃焼感は残りましたが、悪い事ばかりじゃありませんでした。これはこれで良かったかな☆

卒論を書いていない・・この負い目が後々の私の仕事に大きな影響を与えました。とにかくやった事に対してしっかりまとめる、それは次へつながるからです。その意識は周囲よりずっと高かった私。

世間がPDCAサイクルを重視する基調になって私の職場もそうなったわけですが・・、そのとき私は皆を先導する立場でこれを指導していたんです。
(皮肉な巡り合わせでした。)

最後におまけです。
あのときの担当教授とのご縁は・・・
それからも・・6年ほど続いたとさ😅

ところが担当教授とは別に8年後、私とは・・とんでもないご縁ある先生が今回の登場人物の中にいます。その人はその後・・東京にある日本科学未来館で常設・特設展示コーナーを設置されるような偉大な先生になる♪

その8年後のご縁以後、私は先生に昔の教え子ではなく、”同志”としてずっと対等に思い続けて頂いている。そんなドラマがこの記事の先の世界にあるとは、この時の私は夢にも思わなかったです。
【おわり】

#忘れられない先生 #大学院 #中退 #卒業論文 #HSP #MBTI #INFJ #提唱者 #麻雀 #謝恩会


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