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年間300冊読む読書家になるための方法

「読書は誰でもできる」という嘘



今日はポケモンネタが思いつかないというか、うまく気が乗らなかったので、たまには読書について書こうと思う。


これから読書を志す人にまず肝に銘じてもらいたいのは、「読書は誰にでもできるものではなく、スポーツと同じように、訓練の積み重ねによって技術を身につけなければならない、高度な知的営為である」ということである。読書のスキルがない人が本を読んだら眠くなるのは当たり前だ。


これを承知して頂いた上で、今まで全く本を読んだことがない人でも、1年後には自他共に認める読書家になるためにやることを3つに絞った。これをやっても読書の習慣が身に付かなかった人は、他の人の方法を試してください(無責任)。


①まず100冊本を読む。なるべくお金を出して買い、読み終わっても売らずに部屋に置くこと。


②カフェや図書館など、自分が読者に集中できる環境を見つける。

③毎日1ページでも本を読む。


読書ははたいへん


例の如くこれもどこかで書いたけど、僕は大学の4年間で少なくとも1000冊以上の本を読んだ。それも俗に言う自己啓発本の類ではない。文学ならドストエフスキー、トルストイ、サリンジャー、モーム、カフカといった外国の古典・名著から、太宰、芥川、漱石、三島などの日本文学まで、手当たり次第読み漁った。哲学や社会学、それから心理学でも、ベルクソン、ハイデガー、マルクス、フロイト、ユングとあらゆる大家の著作が本棚に並んでいる。


これを「まだまだだね」と思うか「すげー」と思うかは人によるけど、世の中の95%の人は「すげー」と感じるのではないかと思う。そしてその中には「読書は憧れるけど読むと眠くなるから…」という人もいるかもしれないし、いないかもしれない。


一応読書家の端くれとして申し上げると、世の中の読書家には2つのタイプが存在する。幼い頃から本に囲まれて育ち自然に読書をするようになる人と、大人になったある時点から何かのきっかけで急に読書に興じる人である。


両親が読書家で、読書をする人が身近にいる環境で育った人は、いわば天然の読書家である。彼/彼女にとって本を読むという行為は、それほど特別なのものではない。両親や祖父母、兄弟が本を読む姿を日常的に目にするので、自分も同じようにしているだけである。人間という生き物は、間違いなく身近にいる周囲の人々の言葉や行動に影響を受けて成長するものである。


一方で、読書の習慣が根付いた家庭環境とは無縁な人々も多い。と言うよりは、ほとんどの人は読書をしない両親のもとに生まれてくるのであり、僕自身もその例外ではない。幼い頃は本を読むよりも、外に出て野球をしたり、家にいてもゲームをする少年時代を送っていた。本を読む人は想像しているより遥かに少ないものだ。


今回の記事では、高校卒業までほとんど本を読まなかった僕が、いかにして本を読むようになったかについて、その経験と方法を書いていこうと思う。幼少期から息をするように本を読む人を天然の読書家とするなら、僕は後天的に読書のスキルを身に着け人工的に作り上げられた読書家である。残念ながら、天然の読書家と作られた読書家との間には超えることのできない壁がある。どうしたってつくりものは自然なものには敵わないという事実は、認めなければならない。これについては説明がいるけど、長くなるので書かない。


それを承知の上で、今からでも読書を趣味やライフワークにしたいという方に向けて、どうすれば読書の習慣を身に着けることができるかを、具体的に示していく。いわゆる読書の「意義」や「効用」については触れないつもりだ。「読書をすると良いことがある」みたいな内容の本は、それこそ巷に溢れかえっているが、これから読書を始める人にとって必要なものは、具体的な方法論と経験談であると僕は考えている。


これは表面
各段裏にも2列ある


現代はSNS上で様々なニュースや情報を得られる時代であり、読書によって得られる情報は、量と速報性においてインターネットに勝つことはできない。無理に読書という地道で苦しい行為をしなくても、生きていくうえで困ることはほとんどない。


それでも、読書によってしか得られない体験は存在しており、それはSNSがどれほど発達しようとも得られない至高の体験である。本の世界に飛び込みたいと思っている人が、はじめの1歩を踏み出す助けになれば幸いである。


まずは100冊読む


駆け出し読書家の第1目標は、100冊読むことである。僕の経験上、読書における成長の軌跡はなだらかな曲線を辿らない。だいたい100冊単位で、それまで読めなかったり理解できずに挫折していた本が、いきなり「あれ、なんかわかるぞ」となるものである。だから、これから読書を志す人には、まず最初の100冊を読むことを目標にしてもらいたい。


「今まで1冊も読んだことがないのに、いきなり100冊なんて…」と思うかもしれないので、裏技を公開する。僕は「100冊本を読みなさい」と言っただけで、その中身については何も指定していない。ということは、どんな本を読んでも構わないのだから、50ページしかないような薄い本でも、子供向けの絵本でも、どんな本でも100冊読めばクリアできる。


屁理屈にしか聞こえないかもしれないけど、これにはちゃんと理由がある。もう一度言うけど、読書における成長は100冊単位であり、駆け出しのひよっこがいきなり難しい本を読んでも、挫折するのが見えている。スポーツを例にとるなら、減量のためにランニングを始めても、いきなり長い距離を走れば膝や腰を痛めてしまい、次の日からはやらなくなってしまうだろう。


まずは軽い負荷から始めるという鉄則は読書にも通じる。ランニングであれば短い距離から始める、あるいは5分走って1分歩くインターバル走から始める、それも無理ならウォーキングで下半身の筋力をつけるなど、まずは基礎体力をつけるべきである。当たり前のことなのに、読書に関してはなぜかここに考えが及ばない人が多い。


それは「文章を読む」こと自体は日本人の99%が幼い頃からできるからである。文章を読むことは誰でもできるので、それ自体に訓練が必要だという認識が薄くなるのである。しかし「歩く」という行為でさえ、深く考え出すと複雑で難しい行為なのである。現代人は当たり前のように右手と左足・左手と右足を出して体をクロスしながら歩いているけど、右手と右足・左手と左足を同時に動かす歩き方もある。ある、というよりは、日本人だって昔はそういう歩き方だったのが、ある時点から変わってしまったのだ。


つい話が脱線したけど、歩くという自然に行っている身体技法でさえ、人間は訓練によって身に着けるものなのに、ましてや読書という自然に存在しない営みに関しては何を言おうか。


本を100冊読む、というのは、まず1km歩くことと同義である。この時に「もっとストライドを大きく。あー肩甲骨が全然動いてないダメ。股関節硬いねえ」なんて言われたら、やる気をなくしますよね?まずは毎日歩いて、1kmは平気で歩ける体力をつけることが先決である。フォームは基礎体力がついてからでないと矯正できない。フォームがない人間のフォームを変えるなどできるわけがない。大切なのは内容よりも、不細工で構わないから形を作ってみることである。


だから、とにかくどんな本でも良いから100冊読む。これがスタートであり、これができた頃にはもう僕が教えることはほとんどないと断言して良い。エッセイでも、絵本でも、ラノベでも、雑誌でも、アイドルの写真集でもけっこう。中古でも構わないからできれば身銭を切って本を買い、読み終わった本は家に置いておくようにしてほしい。「自分はこれだけの本を読んだ」という実感を、いつでも見えるところに形として残しておくことも重要である。


まずは軽い負荷を数多くこなすこと。これがすべてのトレーニングの基本である。スポーツでも読書でも変わらない。


それでも「こんな簡単な本ばかりで良いのかな」「夏目漱石を読めるようになりたいんだけど」と疑問を持ってしまう人は、3冊絵本を読んだら1冊は漱石の作品を読む、という風にすれば良い。この方法であれば100冊読む頃には、難しい本を25冊も読み終わることになる。いきなり分厚い本を読んで挫折すればいつまでたっても0である。

『失われた時を求めて』は5年ほど積読状態



家で読書ができるなど甘えるな


次は読書をする環境について。まず100冊読もう、というのは、基礎体力に加えて「自分はこれだけ本を読んだんだ」という意識付けのために僕は提唱している。「自分は読書家である」という思い込みを意識に刷り込んでもらいたい。


実際にあなたの周りで、人生で100冊以上本を読んでいる人を探してみてほしい。ほらね、意外といないものでしょう?100冊も読めば胸を張って読書家を名乗れるのだ。だから「まずは絵本でもラノベでも良いから100冊」なのである。


これに関連するのが、読書する環境である。もし「寝る前に読書でリラックス」などと考えているなら、それは甘い。読書には多大なる集中力が必要であり、僕でさえ自宅では1時間も読書に集中できない。犬がおしっこをしたり、スマホが気になったり、眠くなったり、とにかく気が散ることが多すぎる。


だから、読書をするにはそれに相応しい場所を選ばなければならない。僕は大学時代に、毎日のように大学の近くのスターバックスで本を読んでいた。たしかにお金はかかるけど、集中して本を読むためには仕方ない。


スポーツジムでお金を払ってダンベルやマシンといった器具を借りるように、読書でもある程度身銭を切って環境を整える努力は不可欠である。いわば施設使用料だと思って、思い切って投資してもらいたい。運動くらいやろうと思えば自宅でできるのに、わざわざ多くの人がお金を出してジム通いをするのだから、読書だって同じ事である。読書のジム通いだと言い換えれば、納得してもらえるだろうか。


さきほど「自分は読書家なんだ」と意識付けすることが大切だと書いたが、カフェなどで本を読むことも大いに役に立つ。「カフェで本を読んでいる自分かっこよくない?」と思うのはナルシシストみたいで恥ずかしいかもしれないけど、他者の目線を利用するのも立派な戦術の一つである。



「読書家になる」ことがゴールなのであるから、どんな形でも本を読めれば問題ない。所詮は大人になってから読書家になろうという「後天的に作られた読書家」が、羞恥心を理由にして目的のために手段を選んではいけない。


いつも同じカフェ(できれば同じ時間・同じ場所)で本を読んでいると、「その場所にいけば読書に集中」と体と脳が覚えてくれてスマホをいじらなくなるし、店員さんも「また本を読む人が来た」と覚えてくれる。時には「いつも何の本を読んでいるんですか?」と聞かれることもある。そうなったらしめたものである。


「最近は『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるんですけど、ドストエフスキーはやはり難しいですな、ははは」なんて一度でも言ってしまえば、もう引き返せなくなる。人間は自分が一度とった言動に反するような行為をすると、不快に感じる生き物である。心理学では「認知的不協和」と言い、これを逆手にとって自分を追い込んでやれば良い。


こうやって自分自身と周囲から「あの人は読書家だ」という評価を受けるようになると、否が応でもカフェに行けば本を読まざるを得なくなる。読書家であるはずの自分が本を読まないという矛盾に、人間は耐えることができないのだから。ただし、自分に酔いしれてばかりで肝心の本を読むことを忘れないように。


読書を習慣にするために


とりあえず書くべきことは書いたと思う。まとめると「まずは100冊読む=基礎体力と読書家としての自意識を同時に養う」こと。そのために「カフェなどの集中できる環境を見つける=ジム通いだと思ってお金を惜しまない。他者から評価されることで引き返せない状況を作る」ことを実践してもらいたい。軽い負荷のトレーニングを反復し、満足できないなら時々負荷を増やしても良い。


最も重要なことは、できる限り毎日継続することである。毎日カフェに行け、ということではなく、通勤電車などの隙間時間で1ページでも良いから読む。それを続けながら、休日にまとまった時間を作る。


大切なことなのでもう一度言うけど、読書はだれにでもできるものではなく、技術と習練を要求する高度な知的営為である。難しい本を読んで理解するには、スポーツと同じように日々の訓練を積み重ねる必要がある。このことを忘れないでほしい。


100冊を読み終えたらどうするか?それはまず100冊を読み終えてから聞きに来てください。気が向いたら記事を書くかもしれない。

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