
ポケモン勢の1%しか知らない!?言語化の意味を徹底解説!
構築記事を書くと何が起こるのか?
前回はポケモン実況動画の話をして、その前は発信することの自由について書いたと記憶しているので、何となくそれと似たテーマを続けることにする。
僕は子供の頃から「言葉」というものが好きで、それについてよく考えを巡らせてきた。素敵な言葉に出会うと、いつか自分でもこんな言葉を生み出してみたい、と思ったものだ。
ポケモン界隈でも「言語化が大事」と言われることがある。だからこそ多くのプレイヤーが構築記事を書いて、他のプレイヤーに自分の考えを伝えようとするのだろう。
では、なぜ自分の考えを言葉にすることが大切な作業であるのか、その理由を説明できますか?
想定できる答えは「言語化することで頭の中に漠然とあった考えを明確にすることができる」ではなかろうか。まったく間違っていない。多くの人はこのことを経験的に知っているのだろう。
では、なぜ言葉にすると思考がクリアになるのか、その理由を答えられますか?ここまで来ると答えに窮する人がほとんどだと思う。これは言語というものの本質に迫る問いであるからだ。
天才過ぎて本を書けなかったソシュールさん
僕は大学生の頃、専攻している経済学の勉強はろくにしないまま、講義をすっぽかしては本を読んで、文学や哲学の世界に入り浸った。そこで出会ったのが、フェルディナン・ド・ソシュールという、19世紀の言語学者である。

ソシュールさんは死後100年以上経った今なお、言語学のみならずありとあらゆる学問に影響を与えている人物である。19世紀と言えばニーチェ、マルクスの名前は、学問と縁がない方も聞いたことがあるかもしれないが、ソシュールさんはその2人に並ぶ知の巨匠として、その名を歴史に刻んでいる。
ソシュールさんは天才と称されていたにも関わらず、生前は本を一冊も書かかなかった。大学でソシュールの講義を受けていた学生たちが、ソシュールさんの考えを後世に残さなくてはならないという使命を感じ、講義のノートをもとに『一般言語学講義』という1冊の書籍にまとめた。
実はこれがとんでもない書物で、後世の学者たちはそこからソシュールさんの天才の片鱗を読み取り、こぞって研究をするはめになった。後に「構造主義」と呼ばれ、20世紀後半の学術界を席巻した思想は、ここから生まれてきた。
ソシュールさんほどの天才がなぜ一冊も本を残さなかったのか、その理由ははっきりとわかっていないようだ。現在のソシュール研究から、『一般言語学講義』以外にもソシュールさん自身の手稿やメモが残っていて、どうやら自分の考えを本にまとめようと試みた形跡があるらしい。

推察されるのは、ソシュールさんは言語というものの本質に限りなく近づいていて、かえって自分の不完全さを理解してしまったがゆえに筆をとれなかったのではないか、ということだ。ソシュールさんは天才ゆえに真理の扉の向こう側を垣間見てしまい、言葉というものの深遠さに直面して、自分1人ではすべてを研究し尽くすことができない、と悟ったようである。
ソシュールさんについては、様々な解説本が存在しているので、興味があれば自分で探してください。
ここで僕が書こうとしていることは、ソシュールさんの思想をまとめることではなくて、ソシュールの思想から僕が勝手に考えたことである。
だから、専門家の見地から見たら間違っていることもあるかもしれないけど、どうせ僕はずぶの素人なので好きにやる。

言葉は世界を捉える「網の目」である
最初の問いに戻ると「なぜ言葉にすると思考は明確になるのか?」であった。そして、この問いこそが言葉というものの本質に迫るものである、とまで言った(たぶん言ったよね?)。
人間と他の動物を隔てる最大の違いは「言語」である。犬や猫だってコミュニケーションの手段は持っている。仲間に危険を知らせたり、空腹を訴えることもできる。しかし、「言葉」を使うことによって人間は、飛躍的に表現できる幅を拡大することに成功した。
ソシュールさんによれば、言語の本質は「分節化」という機能にある。言葉の主機能は、この世界の現象に切れ目を入れることにある、と言い換えて良い。
たとえば僕らは4本足で歩く生き物を見て、それが”ワン”と鳴けば「犬」と呼び、”にゃー”と鳴けば「猫」と呼ぶ。同じ4足歩行の生き物であるにも関わらず、犬と猫はまったく違うものとして分類される。言葉によって、4足歩行猫の生き物は「犬」と「猫」に分割される。
さらに、犬は「プードル」「チワワ」「ダックスフント」…と細かく犬種を分けられ、猫も「マンチカン」「スコティッシュフォールド」「アメリカンショート」「ペルシャ」...と数限りなく呼び分けられている。

もっと例をあげよう。
ところで虹の色は何色ですか?7色ですよね。外側から順番に赤・橙・黄・緑・青・藍・紫とGoogle先生が教えてくれる。
ところがどっこい、世界には虹が7色に見えなくて、6色に見える国の人々がいる。6色はおろか、3色にしか見えないと言う国の人だって存在している。で、結局どれが正解なの?
正解を言えば「どれも正しい」。その差を生み出すのが「言葉」である。日本人の目に虹が7色に見えるのは”赤・橙・黄…”といった言葉を知っているからである。色はもともと分節されているのではなく、見る人が勝手に切り分けて名前をつけているのである。
ほら、グラデーションを思い浮かべてみると、どこからどこまでが同じ色なのかわからないでしょう?白がだんだん淡い水色になって、青になって、紺になって、やがて黒になる。そういう風に見えるのは、僕らが勝手に切れ目を入れているからである。日本語とは違う言語を使う、極端に言えば青・藍・紺…という言葉を持たない人々は、青と藍と紺の区別がつけられないので、1つの色にしか見えない、という事態が起こる。
言葉とは、グラデーションに切れ目を入れる機能を持っていることが、おわかり頂けただろうか?

言語による色の分節の差異
「言語は差異の体系である」というのがソシュールの思想の肝
ほかにも違う例をあげると、言語の違いが必ずしも国の違いではないことがわかる。東京の人は冬の寒い日に空から白い粉が降ってくると「雪だ!」と言う。ところが、これが北国の人は雪の質感から「これは粉雪」「あれはボタン雪」「昨日降ったのはべた雪」…と、同じ「雪」の中にさえ切れ目を入れることができる。
つまり、言葉を知っていれば知っているだけ、世界をより細かく分節して眺めることができる。言葉を知るということは、世界を捉える網の目を細かくしていく作業である。網の目が細かいほど、たくさんのものを捉えることができる。網が粗かったり破れていたりすると、世界はそこからするすると零れ落ちてしまうのだ。
プレートじゃねえか!
難しい話かもしれないので、もっとポケモン好きの人にもわかりやすく話そう。
ポケモンに詳しい人なら「あれはピカチュウ」「小さいのはピチュー」「おなかをすかしているのはモルペコ」「隕石の下で木の実を食べているのはパチリスさん」「作画崩壊はデデンネ」と言い当てることができる。

さらに、ピカチュウとピチューは電気単タイプで、ピチューはピカチュウのに進化して、モルペコは姿によって技のタイプが変わって、パチリスさんはHDで、デデンネはいつも作画崩壊していて…
このように「タイプ」「技」「進化」「調整」という諸々の言葉によって表される概念を知っていると、より細かくそのポケモンの特徴を理解することができるだろう。概念は”網の目”である。
ところが、ポケモンを知らない人がこれらのポケモンを見たら「これみんなポケモンなの?ふーん、どれもねずみみたいだね」と言って終わりである。以上。もっと言えば、犬や猫にポケモンの画像を見せても無反応であるか「?」としかならない。
もっと例を挙げてくれ?そうだ、ウォロさんとコギトさんが良い。
アルセウスに出会うために丹念に神話や歴史を調べ上げたウォロさんにとっては、プレートは特別な意味をもっているものであり、まな板とプレートは似ても似つかぬものである。そんなものが区別できない人間が存在するなど、ウォロさんには信じられないことである。

ところがコギトさんにとっては、プレートだろうがまな板だろうが、違いはないと言っても良い。コギトさんに必要だったのは、包丁でにんじんを切るための板であって、部屋に偶然にもプレートがあったから「ちょうどいいじゃない」と思い、プレートをまな板にするという天然を発揮したのである。

世界は混沌 言葉がカオスを切り裂く
世界は本来、混沌=カオスの塊である。すべての事物・現象は色のグラデーションのごとく、光のスペクトルのごとく繋がっており、人間は「言葉」によってそこに分節を差し挿れる。混沌に切れ目を入れることによって事物を切り分け、人間は複雑な思考を可能にした。
歴史や神話を知っているから、ウォロさんはプレートとまな板の間に切れ目を入れることができるのだ。
余談だけど、これこそが義務教育で外国語を学習する理由である。僕らは言語によってものを考えることができると書いてきたが、裏を返せば言語によって思考の枠組みを制限されている。日本人は、日本語にない概念を理解することができない。
つまり人間は”言語の檻”の中でしか物事を考えることができないのである。日本語では「危険」という1つの言葉でしか表現できないものを、英語では微妙なニュアンスの違いから「risk」「danger」「hazard」と使い分ける。
他言語を学ぶというのは、ただよその国の言葉を知ることで新しい事物・概念を習得するにとどまらず、その国・社会・文化に属する人々が共有するものの感じ方や分析の仕方を自分のものとして、自らの内に新たな視点=他者を取り込む営みである。
どこかの日本のお役所が言うような、「グローバルに活躍する人材を育成する」などという、表層的で一時的な景気のことしか考えていないような目的のためではない。言葉を学ぶことは、他者とのコミュニケーションを可能にすることに加えて、ひとりの人間の内に他者を取り込み、内界=心を豊にするのである。
たしかに、どれだけ多くの言語を学ぼうとも、人間は”言語の檻”から逃れて何かを考えることは不可能である。日本語・英語・ドイツ語・フランス語・中国語ができても、結局はいずれかの言語を使わなければ思考は不可能である。
しかし、日本語によって作られた柵を捻じ曲げて、四角い檻を丸くすれば、檻を転がして未知なる場所へ向かうことができるかもしれない。自分の枠組みを変形させて、押し広げて、今まで届かなかった領域へ足を踏み込むことが、言語学習の意義である。学校の教師は誰もこんなこと教えてくれなかったけどね。
低順位でも構築記事を書こう 上位勢の構築記事を読もう
ここまで読んで頂ければ、対戦勢がわざわざ時間をかけて構築記事を書く必要性がわかったと思う。構築記事を書くという作業によって、プレイヤーは自分の頭の中に存在する漠然とした思念を分節し整理しているのである。切れ目を入れることによって、人間が現象をより深く分析し理解することができることは、虹の色や雪の名前を知ることで、自然という現象をより深く味わうことができるのと同じである。
上位勢の構築記事を読むことは、強者の思考や概念・語法を自らの脳内に取り込む作業である。もっと言えば、自分と強者との同一化を試みる作業であると言っても過言ではない。
そこで知った思考や概念・語法を自らの血肉にするには、対戦数を重ねることに加えて、同じ言葉を用いて自ら構築記事を書くことが必要不可欠である。
読むだけで、あるいは外から取り入れるだけで身につくような知識は、ほとんど役に立たない。自分自身で言葉を使い、自分なりに世界に切れ目を入れてみて、それまでの世界観を押し広げ形を変えてしまうような苦しい努力をしなければ、血や肉としての生きた知恵にはなりえないだろう。
”ヤバい”は”ヤバい”よ
とうわけで、今回は言語化の必要性やら外国語学習の意義やら、色んなことを書いてみた。昨今は「若者の語彙力」の低さが嘆かれているけれど、「ヤバい」という言葉を使わない方が良いという言説は、強ち間違いではないと思う。
「ヤバい」は良い意味にも悪い意味にも使えて、とても便利な言葉に思えるけど、裏を返せば「素晴らしい」「魅力的」「状況が悪い」「不快である」…といった多種多様な概念の分節をさぼっているだけなのである。語彙力を鍛えるためには、多くの言葉に触れて、自分で使ってみるしかない。
語彙力なんていらないよ、という人は別にそれでいいけど、たとえば男の人が好きな女の子に向かって「君の今日の髪型ヤバい!!!」と言っている場面を想像してみると、冷静に考えてけっこう「ヤバい」でしょ?
「え、うそ、寝ぐせついてる?!」と慌てた女の子に向かって、「いや、すごく僕の好みで、君に似合っていて、可愛くて、うっとり見惚れちゃうくらい綺麗だよ、っていう意味なんだけど…」と弁解するシュールな状況を想像すると、思わず笑えてきて、語彙力は大事だなと思いませんか?あ、思わない?そうですか…
うーんとですね、言葉について話すのは至難の業であり、だからこそ世紀の天才であるソシュールさんも本を書こうとして挫折したのだ。というわけで今回はこれ以上ボロを出す前に終わりにしておく。
次の話は知らない。なんだか最近これ多いなあ??