自分のために書いたっていいじゃない
「自分のために書いていい」
そう気づかせてくれた本に出会った。
いしかわゆきさんの「書く習慣」。
noteをしばらく書いているけれど、いまだに「こんなだれの役にもたたないもん書いてどうすんや?」という気持ちが消えなかった。
だれかの悩みを解決したり、生活に役だつ技術を教えたり・・。
それができたらいいんだけど、そんな経歴も資格もないしな~。でもなんか書きたいんだよな~。
そんなわたしに、いしかわさんはさらっと言ってくれた。
「自分のために書いていいよ」と。
いや、実際に会話はしてないけど、本を読んでそんな気分になったのだ。
いしかわさんはこうも言った。
「人は誰よりも自分のことが大切で、自分のことを語りたい生き物」だと。
・・まさにそれだ!それわたしのことです!!
たぶん、わたしは人よりも承認欲求が強い。
なんとなく自覚していて、そしてそんな自分を”汚い”と思っていた。
「認められたい、愛されたい」。
求めるばっかりで、そんな自分がいやで本心を語らず、ずっと隠してきた。
でも、そんな自分を、自分で許していくためにも、書くべきだと気づかせてくれた。
日々の想いや、どうしようもない自分について・・ちゃんと書いて、そして受けとめる。
そんなあれこれを「今の自分」が残しておくことで、いつかおばぁちゃんになった「未来の自分」が、笑ったりするかもしれない。
「あがいて、もがいて、必死に生きてたなぁ」って、救われたりするかもしれない。
それだけで書く意味があると思った。
ともだちになりたい
本を読んでいて、もうひとつ気づいたことがあった。
だれかの悩みを解決したり、生活に役立つ技術を教えたり・・。
そういう文章を書けるのは、もちろん素晴らしいことだと思う。
でも同時に、そんな文章にモヤっとしてしまう自分もいた。
その理由は、そこに「上下関係が発生している」ように感じるからだ。
「教える人」と「教わる人」。
すべての文章がそうではないだろうし、たとえ上下関係があったとしても「教える側」に立っている人には、純粋に「役に立ちたい」という気持ちがあるのもわかる。
でも、わたしがしたいのは、たぶんそれじゃない。
何かを教える”先生”じゃなくて、”ともだち”になりたいんだと気づいた。
なんとなく発した言葉に、「それわかるわ~」って誰かが答えてくれて、そのままダラダラしゃべり続ける放課後のような。
そんな時間を、文章を介して過ごしたいんだと思う。
もしかしたら、それが一番難しいのかもしれない。
でも、それができたら最高だなと思った。
文章に意味づけするのは自分じゃない
冒頭でも言ったとおり、「こんなだれの役にもたたない文章書いて、意味ある?」って思ってた。
そんなわたしに、いしかわさんはまたまた言った。
「文章に意味づけするのはあなたじゃない」と。
・・なるほど。目からうろこ。ポロン。
めちゃくちゃがんばって書いた文章でも、逆にやけくそで書いた文章だとしても、それを世にだした瞬間、それをどう判断するかは「読んだ人が決めること」なんだ。
これは文章に限ったことではなく、相手がどういう行動をするかなんて、こっちにはどうしようもないことで。
”どうしようもないこと”を、どうにかしようとしてたから、しんどかったんだと気づいた。
だからいまは、文章の意味なんて考えないことにする。
愛にあふれている
いしかわゆきさんの「書く習慣」。
この本は、何かを伝えたい、書いてみたいけど自信がない。
そんなわたしのようなウジウジしている人間への、愛にあふれた本だった。
その愛は、きっといしかわさんご自身も、同じような時間を通り過ぎてきたからこそ生まれたんだろうなぁと思うと、なんだか嬉しくて、勇気が湧いてくる。
だからいまは、人のこととか、文章を書く意味とか、とりあえずおいといて。
自分のために書いてみようと思う。