2329人/9831、参院選公示、1ドル=136円、『PLAN 75』~807日目
都内新規感染2329人/9831、都基準重症者0人、死亡1人
病床使用率12.1%(612人/5047床)、オミクロン株の特性を踏まえた重症者用病床使用率2.4%(10人/420床)
参院選公示、7月10日投開票
21日夜、埼玉県川越市のネットカフェで女性店員人質にたてこもり、22日未明に42歳男を逮捕監禁容疑で現行犯逮捕、けが人なし
アフガニスタン東部で強い地震、100人以上が死亡
21日)1ドル=136円、24年ぶり
アースレッドで虫を殺しながら水曜の映画鑑賞
水曜なので映画を観る。
最近、ダニが出てきた。ごきぶりも気になる。アースレッドの煙をたき、部屋の虫を殺している間に鑑賞。仕返しありませんように。
映画『PLAN 75』、パンフ売り切れ、関心の凄まじさ!
『PLAN 75』、1200円。早川千絵(46)監督・脚本。
少子高齢化社会において、政府が進める75歳以上「姥捨て山」案件。観るつもりであった。自分も年をとってきてるし。知り合いと話した時は「今時は75歳って、まだまだ元気な人多いから、PLAN80でよかったんじゃないか、など話していたが。。
事前にチラッと見た映画コムのレビューはほどほどだった。ふーん。
朝、映画館の座席をネット予約。3割ほどしか埋まっていなかった記憶。
ところが、いざ映画館に着くと、人がうようよ(自分もだが)。さすがに満席ではないが、真ん中辺の見やすい席はほぼ埋まっていた。そして、60代以上に見える、特に女性多し。
さて。観始めた時点でパンフを買おうと思い、観た後に店に行ったら売り切れだった。えー、6月17日公開で、まだ6日目だよね。皆の関心の凄まじさに、びびる。
※以下ネタバレあり。
微動だにしない「安楽死」制度の上意下達
構成。
最初に、植松聖による津久井やまゆり園での重度障害者殺傷事件を彷彿とさせる、ライフル銃らしき武器で高齢者施設襲撃事件を起こした血だらけの犯人の自殺。犯人は死ぬ前に、高齢者ばかりが増え、若者が生きにくい社会の問題を訴える。
物理的に恐ろしい、えぐいシーンは、冒頭の、ここのみ。
このシーンに重ねるように「高齢者施設の襲撃事件が相次ぐ中、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行された」
というラジオ(?)ニュース。
ここで、少子高齢化が進む日本社会で「希望する」「(75歳以上)高齢者の安楽死制度導入」が枠組としてきっちり決まり、以降、微動だにしない。
さらに、再びニュースで「65歳以上への引き下げも検討」と流れる。。
国民は強制されるわけではないが、その制度を廃止させるパワーもそこにはない。一度制度、法律ができたら「お上」に淡々と従う日本人そのもの。
政府、政治家、つまり政策決定者は全く出てこない。
マスコミが淡々と国の政策を伝えるだけ。そして、国民は、強制されず、自分の選択で粛々と従う。
まるで、コロナ禍のマスク要請のようだ。。
社会課題「長生きし過ぎリスク」を、個々の「死の選択」へ
この制度の怖さは、みんなの「長生き」が限度を超えるとリスクとなる現実を、「公」に認定し、政策に転換したこと。社会全体の課題である「長生きし過ぎリスク」を、個々の人間の「死の選択」に結びつけたこと。
対象者は、最初は自分が選択するとも思っていないが、失業し、住むところを失い、友も失う中で、そのプラン選択に「あきらめ」と共に追い込まれていく。
そして、政策遂行者たちは「仕事」として淡々と進めるが、いったん、その「対象者」を目の前の「知った人」ととらえてしまうと、もはや淡々とできなくなる。
強制ではなく、あくまで自己選択の「自己責任」
で、ひとり、ふたり、その制度に外れる人が出てきても、制度は揺らがない。そこが恐ろしい。
さりげに「途中で止める人は多い」という情報。そこがまたリアルだった。
つまり、自己選択による「自己責任」なのだ。
国家のため、に弱い日本人を上手に政策に誘導するやり方。ここは、なかなか。
そうそう、予告編で「このプランはいつでも止められます」という説明が嘘なんやろな、と思って本編を見たら、「止めてほしい」という思いのこもった台詞だった。ほお、ちょっとびっくり。
あと、遺品整理で眼鏡、はアウシュビッツを思い出した(ガス室で殺された人たちの眼鏡と髪の毛の展示がある)。
それから、日本人は「国家のため」に対して、フィリピン人は「神」をもとにした集まりが描かれ、どちらが正しいでわけでない。誰もが何らかの考えにすがっていて(それが「同調」なのか?)、完全に自分だけの考えで生きている人はいない、と改めて感じた。
「昔から知っている」倍賞千恵子という「老女」の選択
さて、倍賞千恵子が主役。
台詞が淡々としている。
「安楽死」という国策の枠組み自体がホラーなので、それ以外はひたすら淡々としている中での、倍賞千恵子。
そこで、彼女を使った効果。それは、演技がどうのより、「昔から知っている倍賞千恵子」を使うことで、大勢の老人の中の見知らぬ赤の一人、ワンオブゼムではなく、「自分が具体的に知っている人」が死を選んでいく様子を、観客がじわじわ感じていくことではなかったか。
倍賞千恵子が「従う」選択なら、危険であった!
倍賞千恵子は、言い方はあれだが、演技上であれ、その行動で、多くの観客をマインドコントロールするだけの力を明確に持っている。特に今回は、まさにリアル演技、現実と空想の境目がぼんやりし、共感しやすい舞台建てだ。
彼女が最終的に「従う」選択であったなら、それに影響された人も多いだろう。それは、極めて危険であったに違いない。
その意味で、最後のシーンは(もしかするとその後に捕まるかもしれないけど)、希望として意味はあった。
そう、創作は「希望」がやはり必要なのだ。
ということで、いろいろ考えさせられる作品だった。
情報不足という人もいるかもしれないが、少子高齢化社会や生きること、死ぬことを普段から考えているタイプの人だと、情報を削ぎ落した「余白」が想像力をかきたてるだろうから、十分ではなかったか、十分に怖い作品ではなかったか。
自分もいずれはひっそりと地味に世を去るのだが、やはり、国の制度で死ぬのは嫌だな。と、今は思う。
ありがとう。
皆さまのご健康を。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?