牛を飼うこと、殺すことについて
新規就農で酪農を始めると決めてから何度も何度も考えていることがあります。僕と妻との間で「牛、かわいそう問題」と名付けて時々話題に上がるこの答えのない問題について少し文章にしてみます。
「ジャージーのオスの子牛あげるから、試しに飼ってみたら?」と隣町の牧場の方から連絡があったとき僕の牧場計画を応援してくれている妻も子供たちも喜んだ。もちろん僕も子牛がわが家に来ることはうれしかったけど、素直に喜べない気持ちの方がむしろ大きかった。胸のあたりにギュッとくる感覚はイチと名付けた子牛が成長する今も、より強く感じ取ることができる。
「いつかこの子を殺す判断をしなきゃいけない」ってことがわかっているから。
経済動物って?
ペットではなく家畜として牛を育てるということは、肉牛はもちろん、乳牛でもいつかその牛を屠畜場に送る日が来る。天寿を全うすることはない。乳牛のメスも飼育コストと牛乳生産収益の採算が合わなくなれば(加齢や病気によって乳量が下がれば)、その牛は乳牛としての役目を終え「廃牛」にされる(「淘汰する」という言葉が使われることもある)。乳用種ホルスタインにオスが生まれた場合も多くは肥育され(※)お肉になることになる。
※肥育:食肉用の家畜の肉量を増やし、肉質をよくするための飼育
家畜を示す言葉として経済動物という言葉が使われることがあるが、家畜は経済的な判断で育てられ、経済的な判断で生命を絶たれる。これは農業としてあたりまえのこと。有史以来、続いてきた人の営みの一つだ。
「経済動物だから」という言葉で済めば話は早い。しかししかし、東京から移住してきた新参者の就農(予定)者の僕は割り切れない感情の落としどころをどうしても探してしまう。
酪農家のジレンマ
研修先の牧場で廃牛になる牛を出荷する最後の見送りに居合わせたことがある。牛を輸送トラックに載せたあとスタッフみんながトラックの周りに集まり、牧場の奥さんが一握りのエサを手から直接その牛に与えたとき、奥さんの目からホロリと涙が落ちるのが見えた。そのすぐ後には冗談を飛ばして和気あいあい牛舎に戻って行かれた姿が余計に切なかった。
そう、僕の知る限り酪農家は誰よりも牛のことを大好きな人たちなのに、育てた牛をいつか屠畜場におくらなきゃいけないというジレンマをかかえている。
さて問題は人の感情
イチを飼い始める前に、僕は二人の子供たちに「これから育てる子牛は将来お肉にするんだよ」と宣言した。これは自分自身に向けての言葉でもあった。子牛はかわいいに決まってる、「やっぱり殺したくない、ペットにしてしまいたい」と自分が思い始めることはことは容易に想像できたから。でもそれでは酪農をはじめるには覚悟が足りないように感じたし、他の酪農家さんや畜産農家さんに申し訳ないような気がした。
かわいそう問題
「かわいい~。これは無理だよね、食べれないよね~。」
イチに会いに来てくれた友達の何人かはこう言った。悪気はないが断定的な語尾がやや引っかかる。気持ちはわかるけど、何か釈然としない。何度も何度も考えて答えが出せないでいる問題に軽く答えを示されて何やらモヤモヤする。
食べることはかわいそう、なのか?
食用動物がかわいそう、という感情は自然なものだと思うし、人によってその感情の幅も様々だと思う。だから感謝していただくという人、だからお肉をたべないという主義をもつ人もいる。そういう理由のベジタリアンの友達もいるし、共感する気持ちもないわけじゃない。
仮に、スーパーマーケットで売られる包装されたお肉にいちいち感情を動かされていては、とても疲れるだろう。だから現代の流通システムは血が通った動物の命の存在を見えなくした。かわいそうかどうか、なんて考えなくても何の支障もない。それが酪農を始めようとした途端に生産者だけが、かわいそうという罪悪感を引き受けるのか?
距離の問題
ペットを飼っている友人に「イチを食べるなんて無理〜」と言う人が多い気がする。まあ、そりゃそうだよね。ペットという近い距離の関係として捉えれば、それは無理。わかるよ。
一方、SNSなどで畜産の現場から積極的に情報発信されている田中一馬さんの言葉はとても俯瞰した位置から命を捉えている。
うーん、わかるような、。。言葉ではわかる。わかるけど。
僕にはまだそこまでは割り切れない。
名付けないか、あるいは名付けるか?
情がうつると辛いので牛には名前を付けない、という酪農家さんや馬搬さんの話を聞いたことがある。名付けないということは敢えて近い関係をつくらない、ということだろう。
僕は子牛にイチと名付けた。たまたまめぐり合った以上、数年後に屠畜することになるしても、この牛を精一杯かわいがってしっかり向き合いたいと思ったから名前をつけた。一つ一つの命に関わりを持ちながら、そのうえで経済動物である家畜を飼うことについて正面から考えてみたかったのかもしれない。
まあ、その罠にまんまとはまっているのが現状なんだけど。
作物は誰が作るの?
酪農家になりたいなんて微塵も思っていなかった30年前、高校生のころに雑誌の立ち読みでなぜか気になって単行本を購入し、度々の引っ越しによる断捨離にも生き残ったマンガ「牛のおっぱい」を最近何度も読み返している。僕のモヤモヤした問の答えがあるような気がして。
ここで言われる「牛にしてあげられること」はペットとしてのイチではなくて、やっぱりある程度俯瞰的な距離感から家畜の生きる環境を捉えないと、見えてこない、と思う。
食べることはかわいそう、なのか?再び
当然のことながら僕の二人の子供もイチのことを可愛がっている。
「イチをお肉にすることをどう思う?」
ある日、小学5年生の長男に聞いてみた。
「うーん、イチをお肉にしたくはない。
でも、お肉にしたのなら自分が食べたい。」
普段はふざけてばかりの長男が真剣な口調でキッパリ言った。
いつか
2022年の4月から土地を借りることが決まったので僕は酪農家になります。
耕作放棄地と山林に放牧地をつくって牛を飼い、乳を搾り、2023年の春にソフトクリームを売り始める予定です。
そして僕はいつかイチを殺すと思います。
ごめんよ、イチ。
だけどイチに「してあげられること」をこれからもずっと、僕が死ぬまで考え続けて、実践しようと思う。