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光源氏はプレイボーイではなかったのかもしれない。

とある機会があって、『源氏物語』の「桐壺」「帚木(ははきぎ)」「空蝉」「夕顔」「若紫」を読み直した。

自分の感想を書いていく。
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〇まず『源氏物語』が書かれた時代背景とは
<紫式部とその時代>
〇紫式部
『源氏物語』作者。九七三年ごろ生。父は漢学者の藤原為時。
子どものころ、当時は男しか読まない漢文の読み書きがよくできたので、父親に「この子が男の子であったらなら」と言わせたほどの才媛。
20代後半に、当時は40代後半の藤原宜孝と結婚して一女賢子(けんし)を産む。一夫多妻のため、正妻ではなかった。
1001年、結婚生活2年あまりで夫が病死して後『源氏物語』執筆を始めたと言われている。
物語が評判を呼び、道長の依頼で家庭教師として彰子お付きの女房となる(三十三、四歳頃か)。
彼女は30代でシングルマザーに。父の藤原為時もあてにならなかったために、働きに出ざるをえませんでした。
この辺、ワーキングママとほんと似通ってない?え?知らん?笑
宮仕えが本当に彼女が望んだことかどうかは分からないし、『紫式部日記』でも最初は他の女房となじめなかった様子が書かれている。
宮仕え期間、没年は不明。


<当時の政治>
〇摂関政治…天皇と自分の娘を入内(じゅだい)(結婚)させて生まれた皇子を天皇にさせ、その後見役として関白・摂政となり一族を繁栄させる、摂関政治が取られていた。藤原道長が有名。
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<当時の恋愛観>
一夫多妻制の妻問婚(つまどいこん)
同棲はせず男が女性の元に通うため、子どもは妻の元で育てられることが多い女系家族だった。
女性は肉親以外の人前に出ないため、付き合う前の今のようなデートはなく、基本的には手紙をやりとりし、逢う時はすなわち肉体関係を伴うものだった。
出逢いは親同士の紹介もあったり、娘がいると噂を聞いた男性が手紙でアプローチしていた。


<和歌と手紙がなくては恋が始まらない…!?>
光源氏と空蝉を結んだのは手紙でした。
その橋渡し役となったのは空蝉の弟メッセンジャーボーイの小君。
今でこそLINEやメールがあり、スタンプや絵文字で想いを伝えるが、昔は和歌(五・七・五・七・七)で想いを伝えていた。
特に男女が一夜を供にし、分かれた翌朝に出す「後朝(きぬぎぬ)の文(ふみ)」の早さが恋愛においては重要でした。

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<源氏物語の構成>
三部に分けられます。
第一・二部は光源氏を主人公とし、藤壺・紫の上・女三宮を配した物語展開。第三部は薫(光源氏の息子、実際は…)を主人公とする。
物語は桐壺帝と桐壺更衣の熱愛から語られはじめる。
桐壺帝にはたくさんの后がいたが、后の中では身分の低い桐壺に夢中になったため宮中で顰蹙を買う中、桐壺は光源氏を出産した。
后たちから恨みを買ってそのストレスのためか光源氏が三歳の歳、亡くなる。
母親の身分が低かったため、臣籍降下し「源(みなもと)」の名字を賜った。ここから光源氏と呼ばれる。
(本名は出てこない。本名出てくるキャラ少ない。惟光とかくらい?)
その後、桐壺帝は桐壺にそっくりである藤壺を妻とする。幼いころ光源氏はこの義母を母のように慕っていたが次第に恋心を募らせていき…
天皇の皇子でルックスの良い光源氏は空蝉・夕顔・末摘花など数々の女性と恋の冒険を繰り広げます。

--------------前提知識はこのくらいにして。


「帚木」の「雨夜の品定め」ってシーンは世間の認知度は低いのですが、イメージは男子サッカー部の更衣室。
男4人が集まって、自分の女性経験を言い合うのです。
馬の頭(うまのかみ)パイセンたちの「中の品の女っておもしろいのが多いよね」って話を聞いて、光源氏は中流階級の女性の話に興味を覚えるんですよ。ここから彼の恋の冒険が始まります。若干17歳。
方違えで訪れた伊予介邸で、伊予介の後妻である空蝉も居合わせていると聞いて、結構無理やりに関係を持ちます。

しかしその後は空蝉はかたくなに彼を拒否します。(詳しくは読んで)


世間のイメージだと、光源氏はプレイボーイでなびかない女はいないイメージかもしれない。
だけど、アプローチした人妻の空蝉に振られたり、いいなと思った夕顔は突然死んじゃったり、正妻の葵上とは冷え切ってたり女性の心を手玉に取るという感じではありません。
そこがまず意外だなあと思いました。
どちらかというと、光源氏が勝手気ままに行動して周りが巻き込まれてるイメージw
衝動的だし、痙攣的でさえある。
ただ、彼のいいところは「捨てない」ところ。
行きがかり上関係を持った軒端の荻とも時々は手紙を送っているくらい。
というか、光源氏は捨てられない人だったのかなと思いました。

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【会話は古歌を引き合いに】
「夕顔」の中にある私が大好きなシーン。

光源氏が乳母(めのと)が病気のため見舞いに訪れた際、近所の家に白い花が咲いていた。

…白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる。
 『遠方人にもの申す』とひとりごちたまふを、御随身ついゐて、『かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる』と、申す。

(訳)白い花が、自分一人だけにこやかに咲いている。
 『遠いところにいる人にお尋ね申す』と独り言を光源氏がおっしゃると、御随身(みずいじん/お供)がひざまずいて『あの白く咲いている花を、夕顔と申し上げます』と申す。


原文だけだと、なぜ御随身が花の名前を答えたか分からないですよね?
実はこれ、平安時代に編まれた和歌のベストアルバム『古今集和歌集』の

うちわたす 遠方人に もの申すわれ そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも(旋頭歌)


の2句目と3句目をひいているんです。
(ずっと向こうにおられるお方にお尋ね申す。そこに白く咲いているのは何のお花でしょうか)
当時、『古今和歌集』は平安貴族の必須教養でした。
だから御随身も上記の古歌を知っていて花の名前を問われていると分かって「夕顔」と答えます。

古典を分かりにくくしているのは「ここ」なんですね。
素直に「あの花の名前は何?」と聞くのではなく、古歌をひいて尋ねるのです。
私はこういうの、うっとりとしちゃう方なのですが、知らない人にとってはとても居心地が悪いですよね。現代語訳も「あの白い花は何?」としか訳せません。


ただ、京都人ははっきりものを言わないと言われますが、
それは貴族社会のこういった文化からきているのかもなあと思ったり。知らんけど(おい)
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あとね、夕顔が光源氏に名前を聞かれたとき、

「海士(あま)の子なれば」

と言って名乗らないのです。
これは『和漢朗詠集』の

白波の 寄するなぎさに 夜をすぐす 海士の子なれば 宿も定めず

を引いて「賤しい身分で、家も定まらず、名を名乗るほどのものではございません」という心を述べています。
ただ、「賤しい身分なので、名前を名乗れません」と答えるよりおしゃれじゃないですか!?
えっ?別に?なんかすみません(笑)

平安時代当時も、例えば、あまり付き合いたくない男性にアプローチされた女性が男性を交わすために「海士の子なれば」と言って断ったりしたのではないかと空想したりしました。

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