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家に帰るまでが展覧会
絵を見にいくのがなかば惰性のようになっているとはいえ、時々「ああ、そういうワケで自分は美術館にいきたくなるんだなァ」とあらためて思い出させてくれるような体験をすることがある。
そういうとき、曇りをきれいに拭き取った後のレンズのように世界はよりくっきりと解像度を増し、おかげで機嫌よく帰途につくことができる。
たとえば、最近でかけたなかでそんな気分を味わったのは渋谷の松濤美術館でみた須田悦弘の展覧会である。
仮に「家に帰るまでが遠足」だとしたら、その展示はさしずめ「家に帰るまでが展覧会」といったところ。美術館の内と外とをひと連なりの地平としてつなげてしまう、ちょっと魔法みたいなところのある展覧会であった。
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須田悦弘といえば植物をモチーフとした精緻な木彫作品で知られる美術家だが、じつはその作品をまとめてみるのは今回が初めてだった。じっさい、人気のある作家ながら都内の美術館で個展が開催されるのはなんでも25年ぶりだという。理由はわからないが、展示の仕方ふくめ会場選びにも相当なこだわりを持った人なのだろう。作品を見せるというよりは、作品のある空間全体を体験してほしい。そんな意図が展示の端々から伝わる。
会場に一歩足を踏み入れると、草花をかたどった作品の数々が館内のいたるところに———壁に、床に、あるいはちょっとした窪みにひっそりと設置されていることに気づく。ふだん整然と作品が陳列された空間に慣らされた目に、そっと作品を“忍ばせた”といった趣の展示は予想外で戸惑ってしまう。
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ひとつひとつの作品は、唐突にコンクリートの壁から生えているようにみえたり、宙空に浮かんでいるようだったり、あるいはまた床のタイルの隙間からうっかり顔を出してしまったようにみえたりとさまざま。戸惑っていたはずが、いつしか宝探しよろしく館内のあちらこちらをキョロキョロしている自分に気づく。
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たしかに須田のつくる木彫はすばらしい。どれも目を見張るような精巧なつくりである。ふつうに展示されていたとしても、思わず「わぁ!」とか「スゴ!」とか声が出てしまうような作品だ。
けれど、須田悦弘の展示の“愉しさ”はそこにはない。それは、鑑賞する側が一方的に作品を見物させていただくのではなく、みずからの意志をもって積極的に作品との関係をとり結ぶことによってこの世界の内に自分の“陣地”を増やす、そのことにあるように思う。それは、たとえば草叢に四葉のクローバーを発見したり、散歩の途中の路傍に愛らしいちいさな花を偶然見つけたりといった感覚、「自分だけがこの世界の秘密を知っている」といった感覚に近い。
じっさい、美術館からの帰り道、気づけばっちょっとした植え込みや雑草に目を奪われている自分に気づき思わず苦笑する。まるで、まだ展示がずっと続いているみたいに。
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こんなふうに、(自分にとって)よい展示をみた後では、世界は美術館に入る前よりもちょっとだけ親密さをもって立ち現れる。いま生きている、日々いろんなことの起こるこの世界と、ちょっとだけ仲良くなれたようなそんな気分になるのである。
ひとは生きるためゴハンを食べる。
そして僕は、願わくは“機嫌よく”生きるため絵を見たり、音楽を聴いたり、また本を読んだりするのだと思う。