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「シュルレアリスムと日本」覚え書き

シュルレアリスムはむずかしい


シュルレアリスムはむずかしい。


東京の板橋区立美術館で開催中の展覧会「シュルレアリスムと日本」をみての感想です。


むずかしいと言っても、それはかならずしも難解といった意味ではありません。そうではなく、意識をもって無意識の領域を描こうとすることに本来つきまとう困難さ、とでも言えばよいでしょうか。

シュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンの《シュルレアリスム宣言 溶ける魚~シュルレアリスムとはなにか?》とともにはじまりました。いまからちょうど百年前、1924年の話です。


そしてそれはフランスからヨーロッパ各地へ、さらに海を渡ってアメリカ大陸へ、またさらにここ日本へと飛び火します。


この「シュルレアリスムと日本」展は、それが日本でどのように迎えられ、若い芸術家たちの心をとらえ、また吸収されていったのか? その受容の歴史を俯瞰する試みとなっています。


シュルレアリスムの花粉


それにしても、とまずは感心してしまうのです。


情報の伝達手段がごく限られていた時代にもかかわらず、シュルレアリスムの波があっという間にここ日本にまで到達していることに、です。


出品リストをみると、いちばん古い年代にあたる作品はつぎの3つです―――東郷青児《超現実派の散歩》、阿部金剛《Rien No.1》、それに古賀春江《鳥籠》。すべて「シュルレアリスム宣言」から5年も経っていない1929年に制作されています。


1929年といえば昭和4年。川端康成が『浅草紅団』を発表し、飛行船ツェッペリン号が世界一周の途上、日本に寄港した年ですね。


東郷や阿部のような渡仏経験をもつ芸術家たちがミツバチとなり、関東大震災からの復興により大きく生まれ変わろうとしていた東京にシュルレアリスムの花粉を持ち込んだというわけです。


そして、持ち込まれた数少ない資料や伝聞をもとに、まずは模倣することから日本のシュルレアリスムははじまりました。


とはいえ、まだカラー図版すらなかった時代です。模倣するのだってカンタンではなかったでしょう。


それでも、見よう見まねで描きたくなるほどに若い芸術家たちを魅了してしまうなにかがシュルレアリスムにはあったということです。


新しいものに飢えた若者たちの前に見たこともないようなものが不意に現れた。そりゃあ食いついて当然ですよね。


こうして試行錯誤しながら描かれた若い芸術家たちの絵は、たしかにあきらかに誰かの真似のように映ったり、技量が追いついていないように感じられるところもあるにせよ、当時のシュルレアリスムの熱狂を伝えてくれるものとして見ごたえじゅうぶんです。


芸術と社会運動のはざまで


しかし、そのいっぽうで1929年はまた、いわゆる「四・一六事件」など治安維持法のもと思想犯の取り締まりがより厳しさを増していった時代でもありました。


プロレタリア文学の代名詞ともいえる小林多喜二の『蟹工船』が出版されたこの年です。ちなみにこれが元となり、小林は後に投獄され拷問の末に築地署で獄死します。


シュルレアリスムをふくむ前衛芸術は、それが〝なんだかよくわからないから〟という理由だけで国家から危険思想として睨まれるようになるのです。


無茶苦茶な話ですが、こんな無茶苦茶がじっさいに起こったのが日本という国です。


だから、自分の身の周りで理解できないものを無意味と決めつけたり、必要以上に気味悪がったり、あるいは攻撃するような風潮が広がってきたらじゅうぶんすぎるほど警戒しなければならないと思っています。


1931年の満州事変あたりを境に日本はどんどん右傾化していきます。


そして、日常的に繰り返される厳しい取締りのなか、さして影響力があるとも思えないような無名の絵描きや美学生たちまでが投獄されるといった事態に至るのです。


そのため当時の日本では、抽象画やシュルレアリスムをふくむ前衛芸術にかかわることは好むと好まざるとにかかわらず社会運動に巻き込まれることを意味しました。


ただ、夢や無意識の領域に戯れるといった純粋な?無邪気な?創作は許されなかったのです。


このことは、日本のシュルレアリスムが直面せざるをえなかった困難さのひとつであり、また不幸でした。


それでは、そんなことをふまえつつ印象に残った作品をいくつかピックアップしてみましょう。


福沢一郎《人》1936年



大作です。荒漠とした大地に、朽ちかけたプロペラ機の残骸が。その前には、男がふたり疲れはてた姿で座り込んでいます。


彼らはいかにも労働者風の逞しいカラダつきながら、なんとそのからだの一部は飛行機と同じように剥落し、向こう側の風景が透けてみえています。


この絵を描いた福沢一郎もまた、フランスでシュルレアリスム熱に感染し日本にそれを運びこんだミツバチのひとり。


今回やはり展示されている《他人の恋》は1930年の作品。おなじ画家の《四月馬鹿》などとおなじくマックス・エルンストの影響がうかがわれる初期の作品です。


それに対して、この《人》という作品からは初期の作品にみられるようなイノセントさはもはや感じられません。なにか苦みさえ感じられます。


この前年、福沢は満州の視察旅行に出かけています。そして、この《人》はその旅行の際に着想をえた作品なのだとか。


当時、日本政府は国策として満蒙開拓団と呼ばれる移民政策を推進していたのですが、移民たちの暮らしぶりは厳しく、およそ内地で喧伝されるような夢のあるものではありませんでした。


その意味で、この作品は完全に政府批判と言ってよいように思います。じっさい、シュルレアリストの親分として目をつけられた福沢は後に投獄の憂き目に遭います。


しかし、いくらシュルレアリスムの手法をとりいれていても、そこに現実世界へのメッセージが込められた時点でそれはシュルレアリスムとは言えなくなってしまうのではないでしょうか。


シュルレアリストになるにはあまりにも良識の人だった、というのが僕の福沢一郎に対する感想です。


佐田勝《廃墟》1945年


昭和20年、敗戦の年に描かれた印象的な一枚。


いかにも夏らしい青空を背景に、廃墟と化した灰色のコンクリートの建造物をあたかもパルテノン神殿に見立てたかのように描いています。


むき出しになった赤い鉄骨が骸骨のように不吉さを漂わせています。


なにもなかったかのような明るい空とコンクリートの直線からなる廃墟が織りなすコントラスト。具象画と抽象画のあいだにあるような不思議な印象をもたらします。


しかしよくよくかんがえれば、この風景は非現実なんかではないのですよね。


いま、まさに画家の目の前にある焼け野原の風景です。


ようするに、戦争によってほんらいシュルレアリスムの領分であったはずの非現実的な風景が現実の世界を塗り替えてしまったとも言えるのではないでしょうか。


シュルレアリスムとは、そう思うと幸福な時代の産物なのかもしれません。


靉光《眼のある風景》1938年


思うに、今回出品されているなかでもっとも正統な?意味でシュルレアリスム的といっていいのがこの作品ではないでしょうか。


うわ、めっちゃ見てるやん!と思わずのけぞってしまう《眼のある風景》。靉光の代表作のひとつとしてあまりにも有名です。


赤黒い肉塊のようなものからじっとこちらをうかがう目。こわい。こわすぎる。夢に出そう。いちど見たら最後、けっして忘れることができないようなインパクトがあります。


この作品をめぐっては、こんな興味深いエピソードもある。

ある人たちはある時期に、靉光の《眼のある風景》や、憂愁のきわみの自画像をみて、軍国主義を憂える絵だと解釈し、この絵かきをレジスタンスの闘士に祭りあげていたけれど、絵かき仲間は嗤っていた。

宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社文庫


じっさい、靉光はまったく政治的なことに関心はなかったというのが当時周囲にいた人びとの共通認識だったようです。とにかく、絵を描くことしか頭にないひとだった、と。


僕らはつい、自分が見たいようにこの世界を見てしまう。かならずしも悪いことではないですが、やはり肝に銘じておきたいものです。


ところで、その奇行の数々でも靉光は有名人でした。


髪を脱色して金髪で現れたり、女装をしたり、コールタールを塗った樽から犬の頭蓋骨まで、絵になると思えばなんでも拾って持ち帰るため部屋の中はカオスだったそうです。


また、コーヒーが好きで、ときには眼鏡を質に入れまでコーヒーを飲んだというエピソードも残っています。極度の近眼で眼鏡がないとまともに生活できないにもかかわらず。


そんな奇行の数々と絵の腕の確かさとによって、靉光は絵描き仲間たちのあいだではカリスマ的な存在として通っていました。


生まれついてのシュルレアリストのようなところが靉光にはあったのです。


なぜそこに目が? とか言わせない圧倒的な強度、とでも言うのでしょうか。


本人がそれをめざしていたかどうかはともかく、《眼のある風景》はまぎれもなく日本のシュルレアリスムを代表する作品だと感じました。


シュルレアリスムとボン書店


ほかにも、今回の展覧会には書籍やパンフレットといった紙資料も豊富に展示されていました。


なによりうれしかったのは、ボン書店から1936年に出版された山中散生編『L’Echanges Surrealiste』の現物をみられたこと。


内堀弘『ボン書店の幻』の表紙にも写っている『L’Echanges Surrealiste』は、ボン書店の主宰者 鳥羽茂がみずからの命を削って世に送り出した哀しくもうつくしい本です。


実物をみて、細部にまで神経が行き届いた装丁の繊細さに心奪われました。


トリスタン・ツァラの死後、その蔵書が売りに出されたとき、目録の中にこの本もふくまれていたそうです。きっと鳥羽茂が聞いたらさぞかしよろこんだのではないでしょうか。


このあたりの時代や本に関心があって、かつまだ読んでいないひとには絶対に手にとってほしい一冊。


辺鄙な場所にある美術館の地味きわまりない展示ではありますが、わざわざ足を運ぶだけの価値のある渾身の企画と断言できます。よいものをみせてもらいました。


いつも労ってくれるのぼり旗

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