パン職人の修造129 江川と修造シリーズ パン屋日和
「和鍵さんのご両親ですか?この度は申し訳ありません」
「お前か!うちの娘を退職させようとしたパワハラ上司は!今度はうちの娘を怪我させて!手をついて謝れ!今度こそ訴えてやるからな」と詰め寄った。
「やめてよ2人とも!こんな店こっちから辞めてやる!だからもういいでしょう。疲れたから今日は2人とも帰って」と言って枕を怪我してない方の手で投げつけた。枕は両親にあたる前に修造がキャッチしてベッドの足元に置いた。
「大嫌い!訴えたら許さない!」
これまでずっと可愛がっていた娘に大嫌いと言われて父親は狼狽えた「何故なんだ、お前の為に言ってやってるんだよ」
「頼んでないわよ!早く帰って」言われた通りにする習性が染み付いている母親は「お父さんまた明日来ましょう。もう辞めるって言ってるし、それでいいでじゃない」と説得しながら父親をグイグイ押して病室から消えた。
修造はしゃがんで和鍵の顔を覗き込んで言った。
「今俺を庇う為に辞めるって言ったんだろう。本心じゃないじゃないか」
「いえ、もういいんです」
和鍵はそれ以降、下を向いて何も言わなかった。
大切と言った事に返事が欲しかったが、聞かなくても分かっている。修造にとって律子が一番なのは見ていて分かる。
病室で一人窓の外の吹き付ける風の音を聞きながら「もう色々無理だから」と呟く。
ーーーー
夜九時頃
大雨が降っていた。
修造は一旦リーブロに戻ってから和鍵の家を訪ねた。
「何しに来た!」
さっきのイライラもあって、父親は玄関先で修造を叱責した。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
大嫌いとか訴えたら許さないと娘に言われたばかりなので裁判の話はしなかったが怒りが収まらない。
「うちの娘に怪我をさせて!どうしてくれるんだ」
その後ろで母親は何故娘がこの男を庇うのか不思議で観察する
男らしい責任感のある態度
一本気な感じ、ひょっとして娘はこの男の事が。そう思いながら口に手を当てて修造を凝視した。
修造はバッグから取り出した和鍵のパンを見せた。
「和鍵さんはうちの社員をいじめていました。その後その社員と勝負をして負けたんです」
「希良梨が」
「はい、だけど段々変化してきたと思います。最近は仕事に向き合っていた。俺も和鍵さんに本格的にパンを教え始めた所でした。これを見て下さい」
「これはなんだ?」
「このパンはミッシュブロートと言って小麦とライ麦を配合したパンです。和鍵さんが生地を作ったものです」
そう言って父親にパンを渡して話を続けた。
「今日パン作りをしていた時は辞める様子なんて微塵も無かった。今日は俺を庇う為に辞めると言ってしまったんでは無いですか」
「希良梨があんたの所の職人をいじめていたのか」
「はい、でも今は違います。上手くやっていけそうでした」
和鍵希良梨が高校生の時、担任に娘が同級生をいじめていた事があると聞いたが全く信じずに『うちの娘がいじめなんてする訳がない』と突っぱねて話も聞かず、校長に捻じ込んで担任を糾弾して辞めさせた事がある。その時娘の希良梨はいかにも自分は悪くない様に立ち回っていた。
ところが今は遠回しに店やこの男を庇っている。
「一体何故なんだ」父親の呟きを聞いて母親が言った。
「オーナーの事が好きなのよ」
「えっ」修造と父親が同じぐらい驚いた声を出した。
「だから辞めると言ったのよ。この責任はどうとってくれるの。あなた結婚してるんでしょう、離婚しなさいよ」
「離婚なんてしません。急に何を言ってるんですか」
「それがあの子の望みだからよ」
「飛躍しないで下さい。そんな話をしに来たんじゃない」
「ママ、何を言ってるんだ」父親は両手を振って母親を遮ったが、父親越しに続けた。
「さっきあんたも希良梨が自分を庇う為に辞めると言ったって言ってたじゃない。責任取りなさいよ」
「馬鹿な事を言うなママ」
「問題をすり替えないで下さい。本当の事に目を背け過ぎだ。そんな発想子離れしてないのが原因でしょう。娘さんは職人として自立しかけている、俺はその事を話しに来たんだ。その為にパンを見せたのに」
二人とも話が通じず変な方向に向いてきた。修造にすれば自分のところの職人を大事に育てたいからやってきたのに。
「このまま和鍵さんが成長するのを邪魔してばかりではうちも辞めてご両親とも上手くいかなくなるんじゃないですか?もう変わらないといけない所まで来てるんですよ。あなた達が捻じ曲げてきた結果でしょう」
二人とも黙ってしまった。
心当たりがあり過ぎて困っている様だ。
「俺は明日和鍵さんともう一度話してみます。今日このパンを前にして、今後の事をよく考えてみて下さい」
そう言って出て行った修造をそのまま見送り、二人は食卓にミッシュブロートをおいて向かい合って座った。
「希良梨は大人になってきたんだな。あの男がさっき希良梨は段々変わって仕事に向き合ってると言っていた」
「そうね」
「あの男の言う通り私達も考え直さないといけないな」
和鍵の父親はパンを母親に渡した「これを切ってくれよ。希良梨の作ったパンだ」
「そうね、頂いてみましょう」
和鍵の母親はパン切り包丁でカットしたミッシュブロートを皿に乗せてだした。
クラストは力強く、クラムはしっとりとしている。
「美味しいわね」
「そうだな、こういうパンって固いと思っていたが意外と甘いもちもちした食感なんだな」
「これを希良梨が作ったのね。私達あの子を子供扱いして、気持ちも良く聞かずに決めつけてた所があったわね」
「段々色んな経験を積んで大人になっていくんだな」
二人は生地の断面を見ながらしみじみと言った。
ーーーー
次の日
強く雨と風が吹きつけていた。
修造は仕事終わりにもう一度和鍵の病院を訪ねた。
「具合はどう?改めてうちのパンデコレを守ろうと怪我をさせてしまった事、申し訳ない」修造は頭を下げた。
「もう大丈夫です。明日退院なんですが、ただの打ち身だったので入院しなくてもよかったのに」
「怪我に変わりはないよ」
「パンデコレはどうなりましたか?」
「大坂が上手くまとめてくれたそうだから後で見に行ってみるよ」
「はい」
「昨日辞めると言っていた事で、あの後ご両親と話してきたよ」
「そうだったんですか。私も昨日よく考えました。今までの自分は間違っていた。真実を捻じ曲げてきたんだなって」
「これからもっと変われるよ。ご両親も和鍵さんの変化と共に変わってくれるんじゃないかな」
「うちの親はやり過ぎるんです。私も両親に合わせてたし、両親も私に合わせていて、それが悪い方にいってたなって思います。江川さんの事、すみませんでした。辞める前に謝ろうと思ってました」
「昨日のことならもう裁判にはならないしだったら辞めなくても良いんじゃない?」
「いえ、もう無理を通したくない。私一人で暮らして新しい環境で一から頑張りたいです」
「そうか、わかったよ。応援してるからな」
「はい」
ーーーー
嵐が過ぎた後のイベント広場は落ち葉があちこちに散乱して荒れていた。
「今日はどんよりしていて涼しいパン屋日和でしたね、お店も沢山お客さんが来てましたね修造さん」
「だな、江川」
修造と江川はパンのヴィーナスの修復ができるかどうか見に来ていた。大坂がよく似たパーツを集めてあったので助かる。前の様にはいかないが、遠目には分からないぐらいには治せるだろう。
「イベントが終わったらこれはもうダメだな。羽やら本体やらあちこち折れてるし」
「残念ですね、あんなに頑張ったのに」江川がシクシク泣きながら修復していた。
「仕方ないよ形あるものはいつか壊れるんだ」
「だって」
「江川」
「和鍵さんが辞めるんだ」
「僕お見舞いの電話をした時和鍵さんから直接聞きました。僕に『今までごめんね』って言ってくれました」
「そうなんだな。なんか辛いな。色々あったけど一生懸命やってくれていた」
「予想もつかない事が沢山ありますね」
「それでもひとつひとつ乗り越えていかないとな」
江川はパーツを引っ付けながら言った。
「あの」
「うん」
「僕も言ってなかった事があります」
「え?」
江川はずっと修造に言わなくてはいけないと思っていた事があった。
今二人きりなので言うべきかと思っていた。
「僕本当は男の身体なのになんだか男でも女でもなくて、それで心が不安定なんです。愛莉ちゃんだけがこの事を知っています」
「うん?」
修造は手を止めて頭の中でもう一度江川の言う事を復唱した。
修造にとって予想もつかない事だった。
「そうだったんだ。俺は鈍いから江川の悩みを全然気が付いてやれなかった。きっと辛かったんだろうな。だけど俺にとって江川は江川なんだ。今までと変わらず接するよ。教えてくれてありがとうな」
「僕もこれからもずっと今まで通り修造さんとパンが作りたいです。面接で修造さんと初めて会った時、修造さんは丁度生地を捏ねていて、凄く無心で誰が自分の事をどう思ってるかとかそんな事関係ない生き方もあるんだって思いました。僕もそんな風にに生きられたら良いと思います」
これからもと聞いて、修造は2年でお前を一人前にする計画を練っているんだからと心の中で思った。
「ふふふ」修造が建てている計画、それはどんな事なのか。
パン屋日和 おわり
修造の計画の前に
次のお話は製パンアンドロイドが生まれるお話です。
どうぞおおらかな気持ちでご覧ください。
※ミッシュブロート 小麦粉とライ麦粉を同じ量で仕込んだパン。グラウブロートとも言う。酸味が中和されて食べやすい。ミッシュは混ぜる、ブロートはパン。
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