【読み方3選】語り手の謎を解け!ハンチバックを100%味わいたい、あなたに
ハンチバック読み方3選
2〜3年前だったか、芥川賞の選評の抜粋を読めるサイトの存在を知り、そこにある村上龍らの言葉があまりに面白くて一晩中スマホをタップ&スクロールし続け、朝までかけて過去20年分くらい読んでしまったことがあった(短文ながらもそのレベルの作家の言葉は三十行の言葉より味わいがあったりする)。
しかし小説というのはなかなか心の余裕がないと読めないもので、選評を読んでも本体(作品)を読むことはあまりなく、肝心の作品の方は、たまに本屋の平台で見かける程度。そんな私が久しぶりに芥川賞受賞作「ハンチバック」を読んでみた。表彰式の受賞スピーチに惹かれたからだった。
……結果。天才的です。マジで天才。当事者文学だ、露悪だ、風刺だと騒がれるが、その言葉の全部が、この構造を上滑りして、凄まじい構造というローラー滑り台の上を大人がニコニコ笑ってガラガラ滑り落ちているよう。
ただ、わかりやすいかというとそんなことはなく、ハンチバックはわかりやすさとわかりづらさの極致を行き来する小説だ。これ以上ないくらい読み手に頭を垂れて語りはじめてくれるその象の鼻は次第に高度を増していき、ファイナルパートは、もはや難解。だけどその難解さを超えた後に押し寄せてくるのは、スラスラ読めるものをスラスラ読んでは起こりようのない心の波……
思うに、ハンチバックは読解ジムである。読み手が努力しないと簡単に登らせてなどくれない山だけど、息を切らして登ると出会えるのは芸術の絶景、みたいな。
特にラスト12ページは難しい。というかあれをもしたった一回の通読のノーヒント・スマホノールックで咀嚼できるとしたら、その人は東大文学部の名誉教授か小林秀雄並みの文芸評論家(なのにネットスラングの教養も併せ持つ)なのだと思うのだが、多少活字が好き程度の私は私は見事にロストし、ネットでレビューを漁り、思考をつぎはいでくれるいくつかのヒントを得、さらに何度か作品を読んで、やっと(そこで痺れた)。でも、一読して理解できなかった作品ほどマニア的に読み込んでみると面白いのって、どうしてなのだろう??そう、これはハンチバックを100%味わいたい、あなたに届くことを願って。
(ネタバレを含むので、ぜひ読了後に。作品冒頭は↓から無料閲覧可能です!✌︎('ω'✌︎ )
ハンチバックを語る上で欠かせないのは、構成の妙である。しばらく前に読んだという人の記憶のリフレッシュを兼ねて、あらすじをおさらいしよう。ぎゅっと身の詰まったハンチバックという本を立て、トントンと机の上に軽く当てて骨組みにしようとして試みると、以下のようになる。
【解釈①】現代神話としてのハンチバック
この深みを語ると長くなってしまうので詳細は別noteにするが、一つ目の読み方は、ハンチバックは現代神話だった、という解釈である。小説は聖書の引用を挟み、「①領域」と「③領域」で唐突に語り手が釈華から紗花へと変わるが、その理由は、①で神の領域に挑戦しようとした釈華と田中が、神の逆鱗に触れたため。一見なんのこっちゃに見える聖書の引用は、「この世の人々は、目に見える『力』に憧れます。エゼキエルのストーリーでは、それが「ゴグ」という名で登場します」という牧師さんの言葉を読むと、だいぶシンプルに入ってくる。
物語の文脈を汲み、聖書の言葉を細かく翻訳・変換していくと、
この一節を挟んで、語り手が釈華から紗花に変わる。その後の語り手となる紗花によって、ヘルパー田中氏はその後釈華を殺し、刑務所に服役中であることが読者に伝わり、場面③は①から7年が経過している(中2だった紗花が大学4年生で卒論を書く)ことがうかがえる──という解釈だ。
【解釈②】 小説家の才能があったのは、釈華ではなく加害者遺族「紗花」だった場合
二つ目の解釈は、①の領域が「井澤釈華の語りで進む物語」に見えて、その実は、最終場面に初めて登場する「田中紗花」(釈華を殺した介護ヘルパーの田中の妹)が、断片的に知る事実を基に想像で描いていた小説だった、という解釈である。つまり読者が感情移入して読んできた81頁(全長93頁中)までの『小説』は作中作にあたるもので、「紗花」によるフィクションだった──と最後に明かされ、それは若干、フルコースの食器やグラスがぎっしり並んだテーブルから鮮やかにテーブルクロスだけがをシュッと抜き取られたような感覚になる。(その後素敵だな、と思い始めるのだが)
【解釈③】:叶えられない願いを反転させた創作を綴ることで、釈華がなんとか生きている場合
もう一つは、1つ目・2つ目と対立し、ハンチバックの“オーサー”は、始終一貫して「井澤釈華」である、という読み方である(クレジットするなら、市川沙央を創造主 / オーサー井澤釈華、的な、、)。
ラストパートは、冒頭のハプバ体験レポート同様に釈華が執筆する文章で、その一遍の主人公として釈華が紡いでいるのが「紗花」。早稲田の政経の4年生で、ホストに貢いでいて、セックス好きで、殺人事件の加害者遺族というプロフィールの女の子。冒頭のハプバの体験レポートに出てくる「ワセジョのSちゃん」のプロフィールがラストパートの「紗花」と重なるのは、それがどちらも井澤釈華の創作物であることをほのめかす。そう、田中に去られ、願い(妊娠と中絶がしてみたい)を叶えられなかった釈華は、R18サイトで不定期に連載する「ワセジョのSちゃんの乱行日記」を黙々と執筆し続けるなかに、「田中と自分」を間接的に登場させた。「私はモナ・リザにはなれない」という悲しみの吐露の反転した、「そうであればいい」という願いを込めて。
そう、ラストパートは釈華のあらゆる願いを具現化した小説のなかのフィクションの一遍(作中作)である。摩擦で金を稼ぐ女になること。受胎をすること。せむしのハンチバックではなく、陵辱されるモナリザ側になること──。
『私の紡いだ物語』が何を指すか
この3つの解釈を分ける一行が、ラストパートに登場する『紗花』のいう「私の紡いだ物語」とは何を指すか、ということである。
「私の紡いだ物語」が、障害者殺しの加害者遺族である紗花が断片的に知る事実を基にしながら想像で綴ってきた『物語』で、それが私たちがハンチバックの9割で目にした『物語』であるならば、2つ目の解釈が正しい(小説家の才能があったのは、コタツ記事ライターの釈華ではなく、紗花だった..)ということになる。最も彼女は、兄に釈華を手をかけさせる代わりに、立ち去らせる、わけであるが──。
この場合、クレジットするなら、
『創造主:市川沙央 / オーサー:田中紗花』の構図。
一方で、『私の紡いだ物語』は、ハンチバッグ内にはテキストとして不出の文章であり、紗花のMacBookの中、あるいはそれを通したどこかのウェブ上だけ存在するものであるとするならば、ハンチバックのオーサーは最初から最後まで、井澤釈華(3つ目の解釈)。あるいは1つ目の解釈(神話としてのハンチバック)のように、時系列で語り手が変化した、複数視点の登場人物から語られる物語……と読むことができる。
ちなみに私は、読解の7合目めくらいまでは、『私の紡いだ物語』がここまでの全部を回収し、田中紗花がすべてを書いていたと思いたい……と思った。
ただそれが、好きだと思ったからである。そのアンリアルな軽さに、この小説は救われるのだと思った。
が、ここまで書いて、突如として、井澤釈華オーサー説(解釈3)に傾いてきた……。
冷静に考えれば、ラストの『紗花』という存在が、あまりに架空っぽすぎるからである。早稲田の政経に現役で入るほど勉強ができる愚かな風俗嬢という設定がではない、風俗の女の子が一見の客にそんな身の上話をする、という行為がである。一見のキモ客(違った、ブサ客だった)を完全に見下し、早稲田の文学部って言っとくくらいがちょうどいい、くらいに相手に合わせたあしらい回答をするにも関わらず、そんな際どい身の上話はバカ正直にする風俗嬢、避妊なしの性行為と結果(妊娠)のナチュラルなつながりを理解できない(だけど早稲田の政経に通うくらいIQが高い)お嬢さんくらいアンリアリスティック。
もちろん、作家はそのことに気づいてないわけがない。だって私たちに紗花の愚行の因果関係を丁寧に知らしめてくれるのは、ミニオくんである客の台詞。
ラストの紗花による一編は、ある方がいい・ない方がいい議論はよくあるが(聖書以降を丸っと削り、田中に去られた釈華の悲しみに満ちたモノローグで終わっても、綺麗に成立するため)、 その紗花の不自然すぎる自己開示は、意外に感想やレビューサイトでも全然突っ込まれていないようだ。なんだかわかる気がする。ここまでスゴいもの見せられて、ありとあらゆる既存の概念や無意識の社会通念を覆す怒涛を見せられた後に、「こんなことあるわけない」なんていう気持ちが、なんかもげちゃってるんですよ。そこまでがすごすぎるあまり、「いやいやいや、その設定でそんなこと言うかい」って突っ込む機能はもう全停止状態。
(要る要らないには、単純に分かりやすさと品格的なものが問われているように感じていたけど、そこの現実味も、もしかして込みの議論だったのかしらん?)
私はここまで丹念に思考を文字にして向きあったいま、田中紗花による全編オーサー説を真剣に推してしまった自分に突っ込みたい気持ちになっている(ハンチバック片手に30時間溶かした先に出てくる気持ち、ですが,,,)。すると私は作者に、にっこり微笑まれる気がする。ええ、そりゃそうでしょ、って。
──そう思う人は、ラスト「紗花編」は釈華が綴ったもの、と思えばいい。冒頭のハプバー体験記が釈華によって書かれたものであったことほどはつまびらかにはされないが、私たちはその片鱗に、その香りをみる。
よく、「たった一人に向けて書け」、と言う。私はその言葉がわかるようで、わからない。書き始めるとき、最初のたった人、はいる。でも、磨き込み、次第に厚みを増していく段階で、最初から最後まで、もしもたった一人の読者しか想定できなかったら、それはものすごく一義的な物語だからそういられるのだと思う。こういう経験を持っている人にはこう読んでほしい。こういうバックグラウンドの人にはこう読んでほしい。そう分かれていく気持ちの、どっちが最前面に来る?の自問自答はある。それでもそこに複数の顔が浮かぶことは、「想定読者がブレている」なんてこととは全然違うと思う。優れた作品は、経験や年齢、見方の異なる様々な人に接続する。どの断片がどの人にどう繋がりうるか、その総量が、作家がその作品に込める豊かさの量で。
ハンチバックは、「そんな風俗嬢いねえだろ」と笑う人にはこの解釈を。下衆の極みと教養、ユーモアと風刺が響きあう文章に、人は皆それぞれの苦難を背負って生まれ、それぞれに愚かで哀しき存在なんだなって変な傍観心理を感じつつ不思議なカタルシスを覚ちゃう人には、そういう解釈を。「ああ、神話だったのか……」って、古典性にクラクラ来ちゃう人にはその結末を。そんな風に、浮かんでは消えていく小道がいくつもある。キックを繰り返して反転する、その時空のひずみのなかに。
違う読み方を体感するたび、それぞれの見事さに、震撼する。
▼文学・ドラマ考察、シリーズでやってます!よかったらぜひ。