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見返りを求めない愛の近道は、ブレない自分自身の意志を貫くこと

私にとってこの世で一番愛しくて、一番尊敬する人が言っていた。

人に期待しないためには、

“理想や期待は自分自身に、相手には信頼と愛情をモットーに”。

自分の意志の強さと、他者への愛情を感じられるこの言葉に、私は、無償の愛の近道を示してもらったのである。

相手がどうあろうと、ブレない自分でいられるだろうか?

無条件の愛ってなに?

私の永遠のテーマだ。

きっと、その答えなんて結局わからないまま、私はそれをただ追求しながら死んでいくのだと思う。

今回の人生なんてそんなもんでいいんだけどさ、全然。

最近、本当にアホみたいに、無条件の愛を持てる人間になるためにはどうしたらええんや…ということを考えまくっている。

そんな中でひとつ確信したことがある。

人に期待しない、人に見返りを求めないためには、

“何があってもブレない自分自身の強い意志”

が必要なんじゃないかな、と。

例えば、人は、誰かのことを思って何かをしてあげようと思った時、大体その相手の笑顔や喜ぶ姿を想像して何かをしようとすると思うんです。

けれど、いざそれをしたときに、相手が喜んでくれなかったら、自分が想像していた反応が返ってこなかった時、どうしても寂しくなったり悲しくなったりしちゃうじゃないですか。

けどそれって結局相手の反応を期待していた、つまり、見返りを求めていた事と変わりないんじゃないかなと思う。

この人に何かしてあげたい。愛を与えたい。癒してあげたい。一見聞こえは良く無償の愛に見えるけれど、結局はただの自分のエゴでしかない。

相手がどう感じるかどう思うかなんて、相手の勝手なのに。

勝手に自分が相手の反応を期待して、勝手に落ち込む。

それって結局は相手のことを本当の意味で想っていたとは言い切れないし、それこそ相手に信頼と愛情を持てていなかったことになるのかもしれない。

だったら、相手の反応なんて気にならないくらいの、

“ブレない自分自身の強い意志”

を持てればいいんじゃないかなと思う。

自分自身の意志で作られる愛は、理由のない真っ直ぐな愛

相手からどんな反応が返ってきても、自分がそうしたかったからそうした。

ただそれだけ。理由は無い。

本当にそう思えることができたら、相手に期待しなくても大丈夫な自分になれるんじゃないかなと思う。

相手の反応1つで自分がブレていたら、半ばそれは自分自身じゃない。

結局“誰かのために”何かをしようとするとそれは少なくとも相手に期待の気持ちが入ってしまう。

“誰かのため”じゃなく、自分がそうしたいからそうしたという自分の強い意志と自分の為を思う気持ちが大切なのではないかと。

結局そういう強い気持ちこそが真っ直ぐなもので、濁りや混じり気もなく、相手に強く届く、のかも。

見方によってはただの自己中かよって思われちゃうかもしれない。

けど結局、無償の愛なんて、ただの自己満なのである。


自分の意志を強く持って生きれることこそ心地の良いものはない

「自分がルールな生き方をしたい」

これも私の一番愛しい人が言っていた言葉である。

私はその考え方がだいすきだ。

だって結局人は、自分がルールの、自分軸で生きなければ、「あなたのためを思ってしてあげたのに」と、愚痴が出る。

結局そんなのは“あなたのため”ではなく、“自分のため”であってエゴでしかないのに、それにすら気づけずに自分の価値がわからなくなって苦しむだけ。

自分軸で生きていればいい意味で他人なんて気にならないし、自分の意志を強く持って生きれることこそ心地の良いものはない。

自分のために自分を生きていれば、結果的に誰かに光を与えられることに繋がることだって多々ある。

けれど人間である以上、誰かのために生きるということも美しいことであって、“共依存”だって人間特有の美しさであるから難しい。

誰かを想い、誰かのために何かをすること、生きることの意味が“誰か”になること。

それだって、人間らしい美しさ。

結局は、自分がどう生きたいかにフォーカスするしかない。

どう生きたいか、どんな自分でいたいかはその人次第だし、どんな生き方でも間違いなんかなくて、全部が正解なの。

自分の生き方こそが正しいと思いきれる人は少ないかもしれないけれど、自分の意志を強く持つことができたら、自分の人生を肯定することができるのかもしれない。

自分自身を受け入れ、自分の人生を肯定すること、それも多分、自分への無償の愛。


多分。

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