【BOOK】『二重らせんのスイッチ』辻堂ゆめ:著 アイデンティティは環境によってつくられる
「僕が僕であるために」という歌があったが、自分が自分であるということを証明するには、自分以外の「モノ」が必要である。だが、やってもいない事件の証拠が、ことごとく「それは自分である」と告げていたら、いったいどうやって自分が犯人ではないことを証明できるのだろう。
社会問題に翻弄され、自己のアイデンティティが揺らぐ。人間とはなんと儚い存在であることか、と思わざるを得ない。
だが、言葉に出来ない違和感が確信に変わる時、自分が自分で信じられなくなる瞬間に立ち会うことになる。
著者、辻堂ゆめさんは初読みである。
本作は「えん罪ミステリー」と紹介されているようだが、えん罪そのものがメインテーマ、というわけではない。
むしろ本題は、そのえん罪エピソードのあとにある。
本作は全編にわたって緻密に張り巡らされた伏線や謎が仕掛けられているので、何を書いてもネタバレになってしまう可能性があるため、あまり内容を書けない。
だが、本作で投げかけられているいくつもの「問い」に対して、私なりの考えを書いてみようと思う。
「二重らせんのスイッチ」の意味とは?
本作のタイトルに使われている「二重らせん」はもちろんDNAで遺伝子部分を指すと思われる。
スイッチとは、DNAのメチル化が引き起こす違いを指している。
DNAのメチル化とは、細胞内を漂っている「メチル基」という原子の集合体が、DNAの特定の場所にくっつくという現象らしい。
メチル化した遺伝子はタンパク質を作れなくなり、タンパク質が作れないと遺伝子の働きが抑制される。
抑制されることで、本来起こるはずだった変化や成長が「発現」しなくなる。
これを「メチル化」という。
メチル化はずっとそのままというわけでもないが、長期的にメチル化したままの状態が続くこともある。
植物が冬には蕾のままで耐え、春になると花を開かせるのはメチル化の影響。
人間にも同様で、生まれた環境、育った環境、経験によってDNAのメチル化が影響している。
メチル化によって抑制されることをスイッチオフとすれば、メチル化が解除された状態をスイッチオンと見ることができる。
一卵性双生児は一般的にDNAが同じであるためDNA鑑定では個人の特定ができない、とされているが、DNAのメチル化を観察することで、個人を特定できるという。
つまり、一卵性双生児であってもDNAが同じであっても、それぞれ個性が違うのは、育った環境によるところが大きいということ。
たしかに遺伝によって形作られるものは多いが、その環境によって変わることも多くあるということでもある。
「置かれた場所で咲きなさい」などという言葉もあるが、まさにその与えられた環境でどこまで頑張れるか、それによって結果が変わり、次のチャンスが降りてくる確率が上がる。
その場その場で踏ん張れない人間は、落ちていくしか無いのだ。
ルーツを巡るジャーニー
日本で生まれて米国で育ったジェイク(基樹)にとって、祖国とはどちらなのだろうか。
「ハーフ」や「ダブル」などと称される人々はしばしば「民族的マイノリティ」という社会問題のひとつとして捕らえられている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqp/13/1/13_24/_pdf/-char/ja
その問題の根っこにあるのは、大きく分けて二つの問題があると思う。
ひとつは、アイデンティティの問題。
二つの異なる文化的背景を持つ存在として、どちらに自分の根源的な「アイデンティティ」が紐付いているのかを確信できないという問題。
もうひとつは、マイノリティとしての問題。
どちらの国においても、自分という存在は「マイノリティ」に属し、対する「マジョリティ」としての集団から、同じコミュニティを形成する存在として認識してもらいにくい、という問題である。
本作において、ジェイク(基樹)は、そのどちらの問題もが壁となって人生を狂わせていく。
物心つく前にアメリカ人家庭に引き取られていったが、アメリカなど欧米では養子縁組に対してオープンであり、自らの出自については幼い頃から説明されることが多いという。
その時点では、ジェイクにとって「祖国」とは、アメリカだという認識があったのだろう。
だが、両親の離婚、再婚、連れ子の存在によって、見た目で分かる人種の違いから差別を受けるようになった。
アメリカでは黒人に対する人種差別が大きな社会問題になっているが、アジア人種に対しても同様な差別があっても問題として認識されていない、という現実があるという。
そうした差別感情から、自身の「祖国」というアイデンティティが揺らいでいった。
そうなると、コミュニティの中で孤立し、やがて学業にも影響する。
社会へ出るころにはもう這い上がることができないまでに落ちぶれていった。
マイノリティであることで、マジョリティとの間にも「壁」が構築されてしまったのだ。
ハリウッド映画で描かれる「アメリカンドリーム」などというものは、現実には存在しない。
アメリカ社会は一度落ちぶれたら、二度と上には這い上がれない社会なのだ。
日本も同じようなものかもしれない。
失われた20年とか30年などと言われている間に、格差社会が浸透した。
一度、学歴のレールから外れたら、軌道修正することはほぼ不可能だ。
アメリカのようにあからさまな人種差別はあまり見られないが、あからさまではない「無意識の差別」は蔓延している。
学校内でのいじめの問題、どこの学校の出身だとか、どの会社勤めなのか等、その多くは「奴隷の鎖自慢」の類いではあるが、幼い頃から大人になっても変わることなく、常に他人との「差異」にびくびくと怯えながら生きているのだ。
家族だから見えるもの、家族だから見えないもの
一卵性双生児のように姿形が同じで、声も仕草も癖も同じように見えても、よく知った仲では違いがわかるという。
非言語的な見た目が限りなく本人と同じでも、やはり会った瞬間に違いに気づく、というのは分かる気がする。
その違いを見分ける決定的な要因は何なのだろうか?
それは、その人が発する「空気」のようなものだろうか。
日本人夫婦が出産する際にアメリカなどの病院で出産し、子どもが将来成人したときに国籍を選べるようにする、というケースを知っている。
親からすると、子どもに対して「国籍を選べるようにする」というのは「選択肢を広げておく」という意味で、愛情の表れなのだろう。
しかし、思うに、その子どもは果たして嬉しいのだろうかと思ってしまう。
選ぶ、というのが、今日のランチを選ぶのとは訳が違うのである。
自らのアイデンティティに関わることである上に、「選ぶ」ことでどちらかを「捨てる」ことになるので、それはかなり大きな心理的な負担になるのではないかと思ってしまうのだ。
だとしたら、いっそのこと選べない方がラクでいい、と思わなくもない。
一方で、どんなに近くにいても家族とはいえ、結局は親と子は同じ人間ではない。
兄弟であっても、同じ人間ではない。
一卵性双生児であっても、同様である。
人間という個体は、唯一無二であり、物理的にも医学的に同一ではないのだ。
だからこそ、たとえ家族であっても、互いに分からないことがあるのは当然である。
家族だから何も言わなくてもわかり合える、というのは現実にはほとんど無いに等しいだろう。
昨今の世の中において、家族というものが神格化されすぎている、と私は思う。
これは映画や漫画、ドラマなどメディアの影響が大きいと思うのだが、きれい事すぎるきらいがあると感じている。
本作もこうした「家族・兄弟を神格化」した内容かと読んでいたが、最後の最後で衝撃的なラストを迎える。
著者の誠実さが垣間見えた。
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