【BOOK】『同志少女よ敵を撃て』逢坂冬馬:著 真の敵は自分の内側にいる
主人公他、主要な登場人物の多くが女性であることは、大きな要素ではあるものの、本作のテーマのひとつの断面に過ぎない。
本作の根幹にあるのは、人はなぜ戦争をするのか、何のために戦うのか、正義とは何かといった人間が生きる上での根源的な問いに対する、著者のアンサーのひとつが記されている、ということだ。
逢坂冬馬さんのデビュー作にして第11回アガサクリスティー賞を受賞、第166回直木三十五賞候補に挙がった上に、2022年本屋大賞及び第9回高校生直木賞を受賞したという超話題作。読まないではいられない、と思いつつ、気合を入れれば入れるほど読むタイミングを逸してしまったまま、2022年が終わろうとしていた。
ロシアによるウクライナ侵攻という本作が意図していない形でも注目を浴びたタイミングではあるが、個人的にはやはり、今、読むべき作品だと思った。
とはいえ、なかなかの長編である。おいそれとまとまった時間が確保できるわけではないので、ここはAudibleの出番だ。
嬉しいことに読み放題プランにラインナップされている。
本作の、二つの大きなテーマについて、感想を述べたい。
「戦争の異常性」と「戦時下・戦後における生き方」である。
戦争の異常性
現時点での日本人の、感覚値で9割以上の人が「戦争を知らない世代」だろうと思われる。
「戦争を知らない世代」というのは、戦争そのものを体験していない、という意味である。
第二次世界大戦が終結したのが1945年8月15日。
当時の昭和天皇の「玉音放送」によって、全国民に伝えられた。
この当時、物心ついた年齢として、いったん5歳くらいだとすると、1940年生まれ以前の方々が「戦争世代」と言えるだろう。
2022年現在で82歳以上の方ということになるか。
高齢者の人口統計から見ると、65歳以上は5歳刻みになっているので仮に80歳以上とすると、
2022年時点で80歳以上の人口は1235万人。
日本の総人口が1億2471万人なので、総人口に占める割合は9.9%。約1割。
ということはやはり「戦争を知らない世代」は約9割である。
つまり日本人の9割は戦争を直接体験はしておらず、したがって戦争に対して実感を伴ってイメージすることは非常に困難なことである、と言える。
できるのは、想像することくらいしかない。
記憶としてあるのは、学校のカリキュラムでの平和学習や、日々のニュースで触れる程度ではある。
では、戦争を知ることや、戦争をイメージすることは、たいした意味を持たないのだろうか?
もちろん答えは「否」である。
戦争を知り、できるだけイメージすることで、二度と同じ過ちを犯してはならないという決意を次世代へ伝え続けていくことが、非常に大切なことなのだ。
単純な歴史としての戦争、ではなく、人と人とが殺し合った、凄惨なリアルな息遣いを持ったイメージを持つことが重要だ。
それには、教科書に書いてあることや、受験のための「歴史」として知ることではなく、まるで目の前で起こっているような臨場感を持ったストーリーとして語られることが最も深く心に響くことは想像に難くない。
本作は、そういった意味では主人公・セラフィマと、彼女を取り巻く人間たちの、絶望と生きる覚悟と戦争における殺戮と仲間への愛情の葛藤を通して、戦争の異常性を見事に炙り出している。
登場人物たちは皆、一様に「何のために戦うのか」と自問し、自分なりの答えを見つけていく。
正義とは何か、という問い自体に気づくことができる者とできない者がいる。
戦争では人を殺すことを競ってしまうことを、異常なことだと気づけるかどうか。
登場人物たちは苦しみ、悩み、もがいていく。
と同時に、読者にもそれは突きつけられている。
読者に突きつけられている、というのは単なる妄想話ではない。
現実世界では実際に防衛のために増税されるというニュースが駆け巡っている。
増税への強い反対で迷走する防衛費増額の財源議論 | 2022年 | 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight | 野村総合研究所(NRI)
フィクションと現実を混同するのは馬鹿らしい、と本当に言えるのだろうか?
北朝鮮は何十発何百発というミサイルを日本海に着弾させている。
防衛省・自衛隊:北朝鮮のミサイル等関連情報 https://www.mod.go.jp/j/surround/northKorea/index.html
それを踏まえて、日本政府は「専守防衛」の考え方は変えないとしながらも、「反撃能力」を保有することを明確にした。
それに対して、北朝鮮はさらなる軍事的挑発を示唆した。
(中国や北朝鮮の反応を見る限り抑止力にはなっていないようだが……)
こうした現実があってもなお、それとは無関係に本書を読むことが、あなたはできるというのだろうか。
戦時下・戦後における生き方
セラフィマはモスクワ郊外の村で暮らしていたが、ある日ドイツ軍がやってきて村人を虐殺する場面に遭遇した。
母も仲のよかった友達も射殺され、村の女性たちは陵辱された上に殺された。
母を撃ったイエーガーという男を仇であると認識した。
その後、ソ連軍が村に到着したが、村ごと焼き尽くすと言われ、挙句に母との思い出の写真まで処分されてしまう。
ソ連軍のリーダー、イリーナは言う。
「お前は戦うのか、死ぬのか」と。
その時、セラフィマはイリーナも仇であると認識したが、生きるためにイリーナの元で狙撃兵になることを誓う。
セラフィマは「戦う」ことを選択したのだ。
狙撃兵の訓練学校では、同じように家族を失った女性たちが「戦う」ことを選び、学んでいた。
狙撃兵として一人前になってから戦地へ赴くと、そこでは男たちに混じって「戦う」ことを強いられることになる。
戦地では、兵士ではない市民が、最も簡単に砲弾や銃撃で命を落とす。
どこへ行っても「戦う」か「死ぬ」しかないのが戦争なのだった。
だが、「戦う」か「死ぬ」かの二者択一しか、本当にその二者択一しか無いのだろうか、と著者は問うのだ。
現在、ヘラヘラと生きてきた平和ボケした日本人の9割が、極限の戦況下において、この二者択一以外に何を思いつくだろうか?
「逃げる」は「死」と同義だ。真っ先にやられるモブだ。
では「戦う」しかない、と考えるのが普通だろう。
だが、著者はこの物語を通して問う。あなたはどうするのかと。
セラフィマは戦うことを選び、復讐をバネにいくつもの局面を乗り越えていく。
戦うには「敵」が存在する、ということを意味する。
セラフィマにとっての「敵」とは、いったい何だったのだろうか。
家族を殺された日から、イエーガーとイリーナへの復讐を糧に生きてきたという意味においては、それらが敵だと言えるだろうか。
そして、その復讐を全うするためには、狙撃兵として一人前になり、最前線の戦地において武功を上げることで、やがてドイツの狙撃兵であるイエーガーを捉えることができると考えたのだ。そういう意味では狙撃兵として成長することを阻害するものは全て「敵」だったとも言える。
だからこそ、厳しい訓練にも耐えることができたし、何人もの敵兵を撃つことに「麻痺」することができたのだろう。
だが、そうした、人を殺すことに「麻痺」してきた自分を、セラフィマはメタ認知することができた。
戦う理由と、人を殺すことに麻痺することとは、別であると考えなくてはならない。
戦争の恐ろしさは、人が人でなくなることであり、大切なものを見失うことでもある。
それこそが、戦争の「真の敵」なのだろう。
シャルロッタもヤーナも、そしてオリガも、自分自身の中で葛藤を抱えながら、それぞれの「敵」と戦い、その戦う理由を信じていたのだ。
終盤、セラフィマは従軍看護師であるターニャのある決意を知る。
戦うでもなく、死ぬことでもない、第三の道があることを。
人生において、二者択一で解決することは、多くはないだろう。
Aでもなく、Bでもない、CやDやEという道は、解像度を上げていかないと見えてこない。
見えるまで、精一杯行動したかどうか。
真の敵は、自分の内側にいるのだ。
ウラヌス作戦やヴォルガ川での戦い、要塞都市ケーニヒスベルクの戦いで仲間を失いながらも、懸命に生きたセラフィマのように、戦う理由と生きる理由をブレることなく持ち続けることができたかどうか。
女性は男性を支える役目であり、ストレスや性の捌け口であり、戦時下では殺しても構わないものだという考えに、1ミリも与することなく拒絶する信念を貫いたセラフィマは、やがてイリーナと共鳴する道を選んでいく。
本作品はセラフィマをはじめとした少女たちの成長の物語に見えて実は、男たちの弱さや馬鹿さをこれでもかと見せつけられる物語でもある。
そして、人としての生き方の物語として捉えることもできる。
ヘラヘラと生きてきた平和ボケした日本人の9割の側の人間として、今一度考え直して見たい。生きる意味を。
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