心理臨床において、価値を選び取るということ
病気や障害になるということ、つまり志気喪失(demoralization)はその言葉の中に、de(否定の接頭語)-moral(道徳)が表すように、道徳の喪失が表されている。生きる意味を失った人達は、moralを獲得することによってそれから回復するのである。
ところでそのmoralや価値ーわかりやすく言えば、どのようなことに生きるべきかーは人の数だけあるといっていいだろう。しかし、認知行動療法にも、力動的心理療法にも、カルト的「療法」にもこう生きるべきだという姿がそれぞれのネットワーク内で共有されている。精神分析は抑うつ的な人間像を目指す(らしい)し、認知行動療法は症状の改善を第一にする短期的な療法である(と思う)。どの療法、あるいはカルト的なものであっても、マッチングがうまくいけば、その人が「主体化」や「治癒」するということは可能である。しかし、どの治療が善き治療なのかということ、つまりどのように生きるべきかというのは考慮に入れられていない。治療者はどのように治療するかというmethodではなく、どのような価値をクライエントと共に目指すかというmoralを選択していかなければならない。つまり治療者は価値観を教育する以上、いかに生きるべきかという問題に対して、一定の答えを持っていなければならないのである。
これは、「こころの支援と社会モデル トラウマインフォームドケア・組織変革・共同創造」の一部の記事に基づいて、私が少し感想や要素を足したものである。
今までの治療の種類
1、理論中心の善き治療
理論中心の善き治療は、どの治療にも存在する、こうあるべきだという人間像に沿って治療を行う。しかし、これでは治療者とクライエントに価値の齟齬が起きたときに問題が生じてしまう。私はまだ分からないが、違う療法の専門家同士にも軋轢が生じ、専門家同士にも、治療関係においても悪影響を及ぼす時がある。
2、エビデンス中心の善き治療
エビデンス中心の善き治療は、客観的な測定に基づく結果や効果をもっとも重視するものである。例えば、抑うつ状態測る心理検査などを通して、抑うつ状態が下がっていたらその治療は善き治療とみなされるのである。
しかし、ここでは何をよいアウトカムであるかということが判断されていない。先ほど言ったように、抑うつ状態を目指す精神分析は効果が薄いと認定される。
さらに、最も重要なのはクライエントがどのような人間像を目指すかというのがまったく視野に入れられていないのだ。当たり前の話だがクライエントの人生に介入するのだから、クライエントの意見は最重要として扱われなければならない。
3、ユーザー中心の善き治療
患者がどのような治療を行ってもらいたいか、どのような治療を成功とみなすのか、つまりどのような人間になりたいかということを中心において行う治療である。エビデンス中心の善き治療よりは進歩しているようにみえるがここにも問題が存在する。
まず、クライエントが目指すべき価値というものをもっているのかということである。たとえば、極端な話をすれば、クライエントが自殺をしたいといった時に、それを目指すべきかという話である。それを止めるなら、それはクライエント中心といえるのだろうか。このようにクライエントは非常に切羽詰まった状況で、虐げられながら生きているのであり、「価値」とよべるようなものを持っていない場合があるのではないか。だから自然にそこには治療者の価値観を持ち込む必要がある。ここにユーザー中心という名前に隠されているものがある。そして、どのようにクライエントと治療者の間で価値をすり合わせていくかということが、ブラックボックスに入れられているのである。
社会中心の善き治療
ここで東畑が新たな治療の在り方として挙げるのが、社会中心の善き治療である。
個人が社会に適応するということを通して、社会と個人の関係において善き治療の基準にし、クライエントがどの治療を受けたとしても、それが彼/彼女の生きる環境に適応できたら成功という訳である。ここで言われる適応というのは、一般的に言われる社会適応という個人が頑張って自分を変化させるような医学モデルに基づくものだけを指すのではない。Hartmannが『自我の適応』で示したように適応には、①環境変改的適応 ②自己変改的適応 ③有利新環境選択の3つがあげられる。
①の環境改変的適応は、社会自体の改善を求めることであり、社会モデル的な発想である。
②の自己変改的適応は、一般的な適応であり、環境に馴染むように自分が変化する物であり、医療モデル的な発想である。
③の有利新環境選択は、違う環境を選ぶということであり、クライアントが環境を変えるという点では、社会モデル的な発想ともいえるし、自分で違う環境を選ばなければならないという点では医療モデル的発想だともいえる。
このように適応には広範な種類があり、個人が変化を要請されるだけではないのである。環境が悪いなら、違う環境を選べばいいし、それでも厳しかったら、環境(社会)を変えようという発想である。
こういった社会と個人の関係という繊細なレンズを通して、治療を目指すということが4つ目の社会中心の善き治療なのである。
疑問
たしかにこれは新たな基準として、機能するかもしれない。新たな基準といっても、東畑も触れているように、適応というのは、たとえば「あの中学校は制服が男女で分けられているから違う中学校に行こう」など、一般的に行われている世間知である。そこに専門知が関わり、治療基準となることで新たなパラダイムとなるのである。
ここで論文は終わっているのだが、それをクライエントと治療者でどうすり合わせていくかというのが依然としてブラックボックスに入れられているのではないか。社会とクライエントの関係性を治療基準にするといっても、どのように社会と関わるのがよいのかという価値のずれが、両者に存在するはずだ。そうした場合、結局上下関係の上にいる治療者がーどれほどそうならないように注意したとしてもーパターナリスティックな結果に陥るのではないか。
どのような生き方をすべきかという古代からの問題に対して、答えるのは不可能といってもいいが、それなりの回答を出さなければいけない治療者や教育者、そして私も探求しなければならないだろう。