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イタリア精神医療の人類学「プシコ ナウティカ」



「プシコナウティカ イタリア精神医療の人類学」著者 松嶋 健

これは大学の文化人類学の授業での小レポートで書いたものである。文化や社会に関する本を一冊選びそれについて書くという課題である。


1、どうしてこの本を選んだか


自分は心理学を専攻するつもりである。また私は精神障害者であるから、精神医療がどのように機能するか、どのような発展を遂げていくかというのは学問的な興味を超えて、自己の生活そのものにかかわってくるものである。

心理学と精神医学は、部分的に兄弟のようなものである。海外の一部の地域は精神医療や臨床心理が発達していることから精神医療の現状に興味を持った。それでイタリアを選んだのは時間がなくて、あまりほかの国の本を見つけられなかったというのが一つあるが、大きな理由が他にある。それはイタリアの精神医療が世界で一番地域に根差しているからである。イタリアの精神科病床数は、総合病院や私立病院を合わせても1万床に満たない。一方で日本の精神科病床数は35万床で、世界中の精神科病床数すべての20パーセントを占める。190か国以上ある世界で1つの国が20パーセントを占めているのである。これはつまり精神科の患者が病院のなかで多大な時間を費やしているということである。日本の全病床では平均在院日数は29.1日であるが、精神病床における平均の在院日数は274.7日である。5年以上入院している患者は10万人近くいる。

地域で暮らすことだけが目標になるのには違和感があるが、イタリアは世界で最も病床数が少なく、地域で障害者が暮らせる制度や文化が整っていることを知っていたため興味をもったのである。






2、概要、興味のあったところ、感想

(1)以前のイタリア精神医療

イタリアも昔から精神疾患者が地域に受け入れられていたわけではない。1907年に創立されたイタリア神経学会の初代会長であるレオナルド・ビアンキはこう述べている。


社会の有機体のなかで場所を占める狂人は、個々の有機体のなかの毒素ないしは感染症を象徴的に表している


狂人というのは今でいう精神障害者のことを指している。つまり病原菌のように精神疾患者は社会という「体」から、排除されなければならないということである。重要なのは、神経学会の会長という、アカデミアの代表としてその言葉を放つことができたということだろう。つまり、社会全体がそれに同意していたのである。まさに全体主義の象徴のような出来事である。


しかし、徐々に精神疾患に対する改革が広がってくる。

たとえば、第二次世界大戦中、イタリアではファシズム政権が支配していたときユダヤ系人の医師は海外に亡命することを避けられなかったが、非ユダヤ人の反ファシストの医師たちは精神病院の閉鎖性を逆手にとって、徴兵を逃れるための入院を容認し、ユダヤ人たちや反ファシストを匿った。



またイタリアにおける国家と精神医療の重要な転回点が、戦後に共和制へと移行したイタリア共和国の憲法である。それには以下の事が書かれている。


第2条
共和国は、個人としてあるいはその人格が発展する社会的な形成において、人間の不可侵の諸権利を認めこれを保障するとともに、政治的、経済的、社会的な連帯について例外なしの諸義務の遂行をもとめる。

第32条第2項
共和国は、個人の基本的権利として、また集団の権利として、健康を保護するとともに、貧困者については無料の治療を保証する。
 誰も、法の定めるところでないかぎり、特定の医療的介入を強制されることはできない。法は、いかなる場合においても、人間の尊重のために課せられた限界を犯すことはできない。


これこそが社会的管理を行う医療の権力をめぐって、個人というものが国家や社会というものより優位であるということが示され、戦前の全体主義からの根本的な転換がなされたのである。ここから現代のイタリア精神医療が始まる。イタリアでは有名なバザーリアという哲学者、精神科医がいて、バザーリア法という法律が重要な節目となっていて、この本でも大きく取り上げられているが、法律よりそれに関連し、それによって広がった思想に興味があるのでここでは省略する。


(2)精神保健のあり方

旧態依然の施設に閉じ込めるような精神医療と比較して、精神障害者を一人の人間として扱い、チームで解決に取り組むようなあり方はこの本の中で精神保健といわれる。精神保健では患者が〈主体性〉を取り戻すことが求められる。〈主体性〉とは自立した人間が、能動的に意思決定することとは違う。一般的な主体性を持っているとされる人は、自分で物事を解決しようとする。しかし、人間という者はそもそもそのようにできていない。「人間」という言葉はその漢字が表すように人と人の間という意味である。人間が存在する場所とは、〈わたし〉個人なのではなく、人と人との間なのである。

つまり、〈わたし〉を構成するのはわたし個人なのではなく、ほかの人たちなのだともいえる。こういう視点から〈主体性〉ということをとらえなおすと、自由主義的、新自由主義的な意味のものを強い主体とすると、〈主体性〉とは、他者とともに生きるということである。自分というゼロから生まれた主体がなにかを<する>という能動態でも、他の主体によって<させられる>という受動態でもなく、自分の中の他者がわたしに要請する場でそれに答えたいという中動態的な弱い主体だといえる。


しかし、入院の場では人間扱いされないことがしばしばある。〈主体化〉というのは人の間で生きるという「人間」になるということであるから、人間扱いされなければ、それは達成されない。


精神病院の撤廃は〈主体化〉の一つの手段であって、目的ではない。

まず精神病院の撤廃は地域にでることの手段であり、地域に出ることは〈主体化〉の手段である。

精神病院の撤廃にはさまざまな議論がある。特に患者を自殺させてしまうくらいなら、拘束して強制的に入院させた方が本人にとってもいいだろうという意見が強いし、僕も部分的にはそう思う。ここでイタリアの精神科医で、この本の登場人物であるマウリツィオの言葉を紹介する。

「そういう考え方は、限られた局面においては一理あるように見える。(中略)そこには問題のすり替えがある。自由の剥奪か、自殺かという二者択一の話ではないんだ。問題は自殺の危険性がある瞬間なのではなく、そのずっと手前の話なんだよ。われわれの仕事は、ある人が自殺しそうになってからどうしようかと考えるのではなく、そうなる前にどうするかという仕事なんだ」

精神医療という場においては、ODや自殺未遂など、自殺の危険性のある瞬間に精神科医は対応しなければならない。だからこそ、精神科医に責任を押し付けるというのはお門違いである。しかし、この言葉が理想郷であるだろう。それにはお金も人員もパラダイムの転換も必要なのである。


〈主体化〉ということを達成するには制度的なアプローチと思想的なアプローチが考え得る。まず制度的なアプローチのうち僕の目を引いたのは精神疾患者の労働についてである。イタリアのトリエステでのさまざまな試みの中で特筆すべきなのが、労働である。従来の精神病院においては、労働は作業療法の形としてしか存在していなかった。作業療法は、労働を行うことによって治癒を目指すものがあるが、実態としては院内の雑用であった。日本でもこのようなことは依然としてあり、就労支援A型、B型があるが、単純作業なものが多い。厚生労働省の調査によると、B型では賃金が時給で平均243円である。

イタリアのサンジョバンニ精神病院では、1973年に「統一労働者社会共同組合」という社会協同組合が入院患者によって創立され、作業療法が撤廃される。精神疾患があろうがなかろうが、入院してようがしていまいが、同じ労働なら同一の賃金が支払われるという理念のもと、イタリアでは組合人には一般労働者と同じように最低賃金法で守られた賃金が保障された。しかし、そこでの仕事は「本当の仕事」であって訓練や慈善活動的なものではなく、競争のある仕事なのである。そのような中で、自分が他の人と同じように扱われているという実感と、自己が因果関係に影響を及ぼしているという効力感を得ることができる。しかし、それを得やすいのが仕事であって、必ずしも仕事で得ないといけないわけではない。このことに関して、有効なのがハンナ・アーレントによる「労働」「仕事」「活動」の3つの区分である。「「労働」は生命を維持するための営み。「仕事」は耐久性のある物を製作し、それを通じて人間世界を創造する営み。「活動」は他者との共同行為」である。※1

ここで問題にされているのは「労働」が「活動」を圧迫していることである。「活動」は人と人の間で行われる唯一の活動力であり、世界に住むのが一人ではなく、多数から構成される唯一の形態である。「活動」を行えば、〈主体性〉を取り戻せるのであり、それは仕事である必要はない。本書のなかでブドウを育てる仕事に従事している人が例に挙げられている。彼は単純作業と思われる仕事の中に工夫を見出していた。

「慣れてくるとどうやったらより早く収穫できるかを自分なりに工夫するし、そうしたらもっとうまくできるようにわくわくしてくるんだ」

彼は、「活動」としての仕事を見出している。「活動」は他者との共同行為であると述べたが、彼はブドウやその木を「人間化」したのである。これはアニミズムという言葉に押し込められているが、例えばカナダのオジブワ族はすべての石と特別な関係を築くのではなく、特定の石と関係を築くのである。この石とわたしに特別な関係が立ち上がるのである。したがって、単純労働であっても、仕事でなくても「活動」は見出すことができる。

これは人間に対するアニミズムとしても応用できる。すべての人間と生きた関係を築く必要はない。しかし、特別な生きた関係に入るということが重要なのである。


次に思想的なアプローチである。というより制度的なアプローチが思想的なアプローチを顕在化させるといってもいいだろう。鳥が先か卵が先かという問題と唱えられてもいいが僕はこの本をそう解釈した。本文から民主主義について文化人類学的な観点から考察している田辺明夫の言葉を引用すると「人々がどのような生をよき生として求めるかについては、当事者に任せるしかない。重要なことは、それぞれの人が自分の求めるよき生のあり方を想像し、未来に対して希望を持ち、それを実現するための実践的な探求ができるような社会的・政治的条件を整える」ということだ。現在は人間を集団として、扱い、能力が最大限発揮されるように介入する新自由主義や経済の論理が働いているが、人間を中心とした役割をはたし、それを支えるのが国家であるということだろう。

ここでは字数の関係上、引用できないが、それに関連してレヴィ=ストロースが以下のようなことを述べでいる。町会や村会の運営と、国家の運営との間には、程度の差だけではなく、質的な差がある。それは国家の運営の方が複雑で難しいから、その部分で異なるというわけではない。前者は顔の見える直接的なコミュニケーションが一般的であり、後者は間接的なコミュニケーションが一般的なのである。間接的なコミュニケーションでは、直接的なコミュニケーションにはある、直接のぶつかりーまさに「人間」の生きた関係―がなく、地域社会のもつ複雑性が失われていくのである。一般的な考えとは逆で、地域が複雑であり、国家が単純である。

これは僕の予想だが、21世紀の全体主義を超えてこれからは地域社会の時代になってくると思う。つまりミュニシパリズムである。特にフィンランドのオープンダイアローグやイタリアの精神患者の地域暮らしなど、精神保健分野では重要であるが、それは万人にとって「人間」であることを取り戻す契機である。


「人間」を取り戻すために本書で得られた有用な思想的なことをいくつか話しておこう。

まず、メルロ=ポンティの鍵概念である反転可能性についてである。


「―実のところ私と他者は実在のもの、実在的な主体性としてあるわけではない。それらは二つの穴、二つの開かれ、何かが生じてくる二つの舞台なのだーそして両者とも同一の世界、〈存在〉という舞台に属しているのである。対自と対他とがあるわけではない。それらは互いに他方の裏面なのだ。」最後の一文である「対自と対他とがあるわけではない。それらは互いに他方の裏面なのだ。」 

これがまさに反転可能性である。つまり「わたし」は「あなたで」あり、非分離なものである。これは先述した、わたしは他人から構成されているということにも一致する。


精神療法にはドラマセラピーという、演劇をすることを通して、治療するというものがある。それが治療的なものなのかどうかも本書では議論されているがここでは省略する。

ある一人の女性が演劇を通してこのような体験をする。はじめのころは演劇の時、いつも恥ずかしかった。でもだんだん何かが変わってきた。 


「あれらの行為は私のではなくて、贈り物なのよ。だから、解放されたの。(中略)つまり、これらの行為は私のものじゃないの、言葉の本当の意味で。そうじゃなくて、贈り物のようにして私のところにやってくるの。それを私は一人で消費してはいけないの、それはほかの人に食べてもらわなくちゃいけないの。」 

彼女は贈り物が誰からの贈り物なのかは語っていないが、それは特定の人からというより、他者と私の「あいだ」から贈られたものだといえるだろう。それはもらいものである、つまり、わたしという主体が作り出したものでないから、他者にお返ししないといけないということだ。演劇を「「見られる」ということは贈与であり、「見る人」に自分の一部を」与えるということである。これは人間へのアニミズムであり、特別な関係に入るということである。


特別な関係について考察しておこう。特別な関係というのはなんだろうか。それは至って普通の関係であり、みんなやっていることである。精神疾患者は病気と施設化によって、その関係を築くことが難しいが、医者や心理士、看護師、ソーシャルワーカーなども患者とその関係を築くのが難しいのである。プロが人の話を聞くときには傾聴が求められる。相手を否定せず、相手の話を聞くのである。これに関して哲学者の鷲田清一があることを述べている。他者を理解するために同じ気持ちになるという「同化」の思想は他者理解にはなにも関係がない。

「ここで保持されるべきは、互いに融合しえない特異なものどうしの、通約されることのない関係の経験である。それぞれが特異なものどうしが、互いの存在をその特異性へと送り返すという出来事の経験である」

傾聴や共感は大事なものであるが、そこにある同化の思想にも敏感である必要がある。決して同化されない他者の他者性による普通の抵抗というものが、人間どうし特別な関係に入る点において重要なのである。


それがイタリアの精神科の支援者の在り方にも表れている。イタリアでは精神科医がトップに立ち、補助するのが看護師、心理士、ソーシャルワークなのではない。それが呼び名にも表れている。心理士、ソーシャルワーカー、精神科医、看護師をまとめてオペラトーレと呼ばれるのである。そして、一人の患者につき担当の医師がつくというのは、日本と変わらないものの、責任者はオペラトーレの誰かが引き受けるのである。その患者と親しいとか適性のあるものが、看護師であれ、ソーシャルワーカーであれ、選ばれるのである。

精神科のことをよく知らない人はピンと来ないかもしれないが、これは日本人の精神科に関わる人にとっては驚きである。なぜなら日本では精神科医が上に立ち、それ以外との権力関係が強固だからである。心理士も看護師もソーシャルワーカーも精神科医の指示に従って動くのが普通なのだ。彼らは傾聴だけではなく、患者に対して普通に「抵抗」する。無理なものは無理で、いやなものは嫌とちゃんと言うのだ。これは患者の生への全体性を尊重しているからである。


また現代では薄れていっているものの専門性の解体ということもイタリアの精神保健の特徴である。心理士であっても、精神科医であっても年金の申請を手伝ったり、家まで赴いて話をしたりするのである。「専門化」というのは、要するに自分の職種、専門、役割に閉じこもることなのだという。そこでは他者の他者性による普通の関係が築けない。なぜなら、専門化というのは生への全体性を欠き、人間の全体性というものを損なわせるからである。

ここまで考えてきた〈主体化〉または「人間」になるということがこの本の目指すところであると思う。これは私の解釈だが、この本の題名「プシコ ナウティカ」は魂(プシュケー)の航海という意味らしいが、それはまさに精神疾患者が〈主体化〉していく過程そのものを指しているのだと思う。


不便なものを尊重し、完成された便利なものを嫌悪するというイタリアの文化が、「不完全な」精神疾患者を地域へと、人間へと導く、源泉となっているのかもしれない。




疑問・提案

社会学や人類学では主導している医療へのアンチテーゼという風向きが強い。障害学には、「医療モデル」「社会モデル」という対立概念がある。やはり僕は人文社会系の人間で、今回は特に(特に日本の)医療に対立する話を書いた。だが僕はどちらかといえば、精神医療に救われた人間であり、医療モデルを気に入っている人間である。

向精神病薬の発見は、狂騒に満ちた精神疾患者を安定化させ、話のできない患者が話のできるようにさせた。凧は風がないと動かない。しかし、私たちは凧を上げている時風にはあまり中を向けず、凧に集中するだろう。薬とはそういうものなのだ。私たちが医療の独占化というところから次のステージへ向かおうとしているのは、医療というものが存在していたからである。

サルトルの言葉に 

「イデオロギーはそれが作られているときには自由であり、それが作られてしまうと抑圧になる」 

がある。これは医療にそのままあてはまるが、「精神保健」にも当てはまるだろう。地域化が進めばそれはいいことだが、それは新たな人やモノを抑圧するであろう。つまり、イデオロギーは常に結論に達せず、弁証法的に止揚を続けるべきなのである。だからこそ私は医療と社会の中間にある心理学、心理士というものに惹かれているのであり、もっとも弁証法的に生きられると思うのである。




※1 関西大学ウェブサイト

https://www.kansai-u.ac.jp/reed_rfl/archive/67_1.php#:~:text=%E3%80%8C%E5%8A%B4%E5%83%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%82%A5%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80&text=%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%96%B6%E3%81%BF,%E3%82%92%E7%94%A8%E3%81%84%E3%81%9F%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

参考文献「能力で人を分けなくなる日」最首悟

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