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梅の花と定家

先日ご近所で開催された梅まつりにいってきました。
梅、好きなんです。


梅は色も形も様々で、清楚で奥ゆかしい愛らしさがある。
蕾までまあるくふっくらしてかわいらしい。
それに対して桜はもっと暴力的な美しさだ。
しづ心なく散るのも屍体が埋まっているのも桜。
桜がなければ心乱れることなく穏やかな春を過ごせると業平がいうのもよくわかる。

みたいなことを思ったりしたんですけど、
定家の詠んだ梅はまたちょっと違う魅力があって。
良い歌ですよ。

大空は梅のにほひに霞みつつくもりも果てぬ春の夜の月(藤原定家)

なんて歌を作るんですかね。さすがとしか言いようがない。
本歌があります。

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(大江千里)

つまり朧月夜を詠んだのです。照るわけでもかと言って曇りきってしまうわけでもない、というのです。
本歌は大変ストレートに朧月夜を詠んだだけなのですが「曇りも果てぬ」という表現がここから流行りました。
定家様も下の句にそのまんまもらっています。

しかし問題は上の句です。
大空は梅のにほひに霞みつつ。これを「辺り一面梅の香に包まれている」みたいに訳して嗅覚と視覚の融合です、なんていう解説が結構多いです。
しかし、「にほひ」を嗅覚としてしまっていいんでしょうか。
古語の「にほひ」は削ぎ落とされてしまった現代語と違ってもっと複合的な概念です。

学研全訳古語辞典より上から3つの意味です。

①(美しい)色あい。色つや。
枕草子「花びらの端に、をかしきにほひこそ、心もとなうつきためれ」
[訳] (梨(なし)の花は)花びらの端に、美しい色つやが、ほのかについているように見える。
②(輝くような)美しさ。つややかな美しさ。
源氏物語「この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ」
[訳] この(若宮の)つややかなお美しさには匹敵なさることもできそうになかったので。
③魅力。気品。
紫式部日記「その方の才(ざえ)ある人、はかないことばのにほひも見え侍(はべ)るめり」
[訳] その方面(=文章)の才能のある人で、ちょっとした言葉にも魅力が見えるようです。

つまり、辺り一面いい匂い、なんていう単純な描写ではないんです。
大空は梅の色艶に美しさに満ちているんです。
春なので霞んでいますがそれは梅の匂い立つ艷やかな美しさに霞んでいるんです。
そこにぼんやりと浮かぶ月。

なんという歌を詠むんだ、と思いますね。
妖しい幻想の世界ですよ。
私の中の梅のイメージが一変しました。
定家様の歌は何とも言えない妖艶さがあって、それは他の歌人と一線を画しているところだと思います。

もう一首。

梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ(藤原定家)


梅の花の匂いがうつった袖に軒から漏れ来る月の光が差してどちらも美しく袖を彩っている。

大変訳しにくいんですが、袖に香りが移るのと光が差すのと2種の美が共存している状態を両者が「争っている」と表現しているのです。

さて、この歌もいろいろと解釈があるのですが、私は伊勢物語の一場面を描いた歌という解釈が好きです。
これ、かの塚本先生は袖が濡れて月が映ってるのではない、って仰ってるんですね。叙景歌ととってるんですよ。
もちろんそもそも「あらそふ」という表現がすばらしいので叙景歌と評価したって名歌なんですがやっぱり私は袖が濡れてる、つまり泣いているととりたい。

元にしたとされるのは伊勢物語第四段です。
(短いのでまんま引用します。大好きな段です。住む人は藤原高子)

「昔、東の五条に、大后の宮おはしましける西の対に、住む人ありけり。
それを、本意にはあらで、心ざし深かりける人、行きとぶらひけるを、正月の十日ばかりのほどに、ほかに隠れにけり。
あり所は聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。
またの年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏せりて、去年を思ひ出でて詠める。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして

と詠みて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。」

女を想って泣き伏してる業平の姿を詠んだ歌であるというんですね。

一年前と同じ、梅は美しく咲いても愛し合った女はもういない。
自分だけは昔のまま、時間に取り残されている。
ここには現実の時間と自分の心の断絶があります。

梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ

この「梅の花のにほひ」は単なる香りではなく梅の花の美しさであり愛する女の思い出から匂い立つ色香でしょう。
そこに「軒もる月の影」は「元のままの月ではないのか」と嘆きの歌を詠まずにいられない、無情なほど美しく誰もいない部屋を照らす月の光です。
その2つが、悲しみに泣き濡れる業平の袖の上で「あらそふ」。

つまり、この歌は伊勢物語第四段の情景を三十一文字に凝縮して描くと同時に、心と時間の断絶そのものを見事に描き出しているんです。
梅=昔と月光=現実と袖=悲しみの涙を一点に集めてるんです。

何回も同じことを言いますが、だからなんて歌を詠むんですかこの人は。
これだから、藤原定家が好きなんですよ。







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