詩)「失われた腕に」を読む 御庄博美 1951年 政令325号違反で逮捕
失われた腕に 御庄博美
~一傷兵のメモより~
おい
そこいらを飛びまわっている
飛行機虫
レイテの底に沈んだ
僕の右腕にあきたらず
真っ赤な心臓まで蝕もうというのか
無残にもただれた正中神経もいまは蘇って
ボードと ナットと リングで出来ているこの鉄の腕は強いぞ
おい
そんなに蒼ざめた眼をして飛び廻るな
飛行機虫
今に この鉄の腕で
たたき落としてくれるぞ!
1951年 国立岩国病院患者自治会報・明友ニュース新年号
政令325号(占領軍行為疎外令)容疑で逮捕
「ヒロシマにつながる詩的遍歴」より
1951年3月15日の早朝であった。国立病院の西三病棟はまだ明け始めたばかりの寒さに包まれていた。発行責任者である患者自治会長の杉川信守君も同じ西三病棟の一階で、僕は二階の病室だった。看護婦さんが「ご面会です」と案内してきた三人の、最初の男が「逮捕状です」と、やっとベッドに起き直ったばかりの僕に四角い書状を示した。
二階の窓からちらっと庭を見た。病棟はすでにぐるりと武装警官に取り囲まれていた。観念して僕はおとなしく幌車に入った。岩国警察署での取り調べでは、当然ながら、「飛行機虫」が米軍の飛行機のことであり、この詩が反米軍行為の詩であるということを追求された。僕は飛行機虫という「虫」がいる、と言い張るよりほかはなかった。
「飛行機虫」という言葉を巡って、冷たい拘置所の壁に閉じ込められ、またそれに続く数か月を、それが米軍の飛行機のことであるか、ないかと検事と際限のない不毛の議論を繰り返していたが、秋風が立ち始めるころ、不起訴という決定になり、僕は病院を追われるようにして岡山医大へ復学していった。
時代背景
1950年6月 朝鮮戦争
6月6日 GHQ 日本共産党中央委員24人を公職追放 レッドパージはじまる
1951年9月20日 峠三吉「原爆詩集」
詩人で医師の御庄博美(みしょう ひろみ 1925年~2015年)は原爆詩集を発行した峠三吉と共に広島で「われらの詩の会」で活動していた。御庄博美は、昭和18年広島高等学校入学。ボート部に入り、練習で毎日尻の皮がむけると先輩から「けつを出せ!」と言われ、ヨードチンキを塗ってもらう日々。期待していた兄を戦争にとられた父からは「ヒロシおまえだけは戦争にいくなよ」といわれていた。徴兵延期は医学部のみに適用されていた。戦局は最終段階を迎えていた。
昭和20年6月、岡山医大へ進学、すでに東京は空襲で焼け野原となっていた。6月29日岡山市は大空襲、医大は壊滅的な打撃を受ける。
8月6日朝、岩国の自宅の庭で東の空に煌めく閃光を見る。
原爆投下だった。「ヒロシマ壊滅」が数時間後に伝わってきた。
8月8日、広島入り。知り合いの娘さんを探しに行く。此処かしこに煙がたなびく。「ミズ!」という声を聞こえないふりをしながら、探しても、見つからない。ほとんど思考は麻痺してしまった。
御庄にとって8月6日は戦慄を伴って振り返る日となった。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。それを前後して、日本共産党中央委員24人が公職追放、レッドパージ(赤狩り)が公務やマスコミ、映画、国鉄、など戦後労働運動の拠点に吹き荒れた。
そんな時期に「われらの詩」は創刊され、御庄は詩にのめりこんでいく。
そして、あの政令325号違反での逮捕事件が起きた。
当時御庄は結核病棟に入院中であった。病棟は50名を超える武装警察に包囲される。
不起訴で釈放されたものの、体力は失われ、そんな御庄を支えたのは「平和アパート」に集まる若い詩人たちだった。サークル詩論を闘わせ、編集会議を開き、ショーチューを飲んで、人生論を闘わせていた。
峠三吉は御庄を待ち構えていた。ガリ切りの出来上がったばかりの「原爆詩集」が部屋の隅に積まれていた。
9月20日に出たばかりの「原爆詩集」はインクのにおいがした。峠は興奮した口調で「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄の言葉を書いて贈呈してくれた。「原爆詩集」の一遍一遍に「そうだ!そうだ!」と共感する僕と「いや違う!もっと違う詩いかたを!」という僕がいた。僕が26歳で、峠が34歳である。
ひとつの時代と詩に生きた人間の証言。
今詩を書くことはこの純粋さにどれくらい迫れているか。