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第二回 「北斎の娘」を聴く会のこと

 行ってまいりました。気鋭の落語家・林家あんこさんの新作落語である「北斎の娘」を聴く会へ。


 爽やかな風とともに話の幕が下りた。

 この時間に受け取ったものはなんだったのだろう。終演後の拍手のなかでそのような感覚を持った。その日はうまく言葉にならず、胸のあたりでその感覚が何か言いたがっていた。寝かせる時間が必要だ。
 それは、いいものを体験したという証拠でもある。

 「北斎の娘」は葛飾北斎の娘であり絵師であった葛飾応為の一代記。第一回から構成を変えたストーリーで語られた。

 第一回は、応為から見える景色を一緒に見させていただいている感じがした。だから景色を一緒になって見ながら、笑ったり怒ったり、悲しんだりしたように思う。今回は、応為と共に笑ったり悲しんだり怒ったりはしなかった。それは、ストーリーをおぼろげながらでも覚えていて、その記憶との違いを確かめながら聴いていたということではない。

 応為という人物の内面・心理に自分なりに入り込んで、そこから外の世界を見ようとしていたからかもしれない。絵師としての腕前は他人に劣らないものを持ちながら、巨人・北斎を父に持ったがためになかなか認められない応為。腕前の未熟さなのか、比べられる対象が大きすぎるからか、それとも女性だからなのか。他人はその問いに答えを出してはくれない。

 絵師である応為は、べにが自分のこだわりだと言う。それは北斎の用いたベロ藍への対抗心にも思えるし、北斎と自分とは違うと個性を主張してもがく姿にも見えるし、素直に自分の感性に従った結果かもしれない。
 応為にとって北斎は気心しれた身内であり父であり、尊敬すべき絵の師匠であり、超えねばならない大きな山だった。どれだけ自分がいいものを描いても「北斎の落款がないと売れないんですよ」。その壁をどうにかぶち壊して自分の腕一本で北斎を超えてみせる。そんな葛藤や焦り、あるいは自尊心が描かれているように感じた。

 その応為が手がけた「吉原格子先之図」は、ものがたりのなかで異彩を放っていた。というのもこの作品には、他の場面で語られる「関羽割臂図」「八方睨み鳳凰図」とは異なり、北斎の存在が感じられなかったからである。
 絵を描くにあたって最も近くに居る北斎。乗り越えられない北斎。絵を描けば常に意識せざるを得ない北斎が「吉原格子先之図」を描いたときには見えなかった。ここで応為を突き動かしたものは、北斎を超えたいとか世間に名前を認められたいという絵師としてのプライドではなかった。
 北斎に必死に食らいついて腕を磨いてきた応為は、その存在から離れたときに初めて自分の絵を描くことができたのではないか。

 偉大な北斎と自分との違いを素直にみとめること。それは自分のメガネを通して技量の巧拙をみるのではなく、違いを単なる違いとみることである。北斎は、美人画を描かせたら応為のほうが上だと言っていた。同じ絵師ではあっても得意なもの、描きたいものは違う。

 最後に感じた爽やかな風は、北斎のことを絵師や目標としてではなく、愛すべき父と素直に見た応為の心の風景だったと思えるのである。



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