学ぶこと
金井雅彦「無限と連続」
ー高校生のための東京大学オープンキャンパス2018 模擬講義
カッコいいと思ってしまったよ、わたしは。
聞いた瞬間、「うわっ」ってなりましたよ。
一流の学者は、ツアコンのようなものだと思った。
見知らぬ学問を育む土地へわたしたちを連れて行ってくれる。その学問の魅力を、それまで縁のなかったわたしたちに伝えてくれるのだ。それは、初めて訪れる旅行先であれこれと説明してくれるツアコンと同じである。
「それを勉強したら何になるんですか」
という質問があるけれど、
「そこへ旅に行ったら何が面白いんですか」
というのと同じような気がする。
旅行に行く前と帰ってきた後で、自分になにか変化があったか、
ということである。
勉強する前と、勉強した後で、何が変わるのか。
別に、何も変わらないのである。
何も変わらないけれど、自分なりの気づきや経験があれば、旅行のあとだって、勉強したあとだって、物事の見方がちょっと変わるのである。そういう意味では、旅行も学問も、どっちも同じである。そしてどうせツアーに参加するんだったら、それを楽しんだほうがいいと、わたしは思うのであった。
そういうことに、もうちょっと早く気づいていればよかったと思うけれど、仮に昔のわたしにそれを言ったところで、響くだけの人生経験がないのだからいくら何を言ったところで反射的に
「うっせーな、失せろアホ」
と思う程度であっただろうことだなあ。
こういう日本語を並べると、普通なら
「なにごとにも先達はあらまほしきことなり」
などという、超絶オッサンくさい凡庸なフレーズで着地するところである。
しかし、
わたしの頭から聞こえてきたのは
「あやしうこそものぐるほしけれ」
であった。
文章を綴っていると、とりとめもなくバカバカしいことをカタカタと打っておるな、と思って自分に白けることもある。
その一方で、だらだらと書き付けていると、うっかり興が乗ってきて思ってもみなかった言葉を継いでいるときがある。そういう文章は、あとから見ても面白かったりするのである。自分の考えていることを多角的にみられるような気がする。
言い換えると、文章を書くこと自体が、なにか自分を別世界に連れて行く体験のように思えるのである。ただ、ちんたら日本語を継ぎ足していく、という誰でもできる行動が、自分の精神にそんな風に作用するなんてちょっとアブナイよね、である。文章綴ってトリップするなんて、なんか変なクスリやってんじゃねェの?、という感じである。
文章を書くことに限らず「おもしろい」と思うことにのめり込んでいるときは今風の西洋横文字を充てていえば「ゾーンに入った」状態であって、「ゾーンに入った」とかいう、謎の造語がなかった昔の日本の人は「あやしうこそものぐるほしけれ」という言葉を充てたのであろうし、そういう日本語表現は現在でもじゅうぶん通用するように思う。