熟成下書きなど。既出のものもあるかもしれぬ。
何も考えずとりあえずキーボードのうえで手を動かすのであった。熟成させた最初は、台風の時期であったらしい。
台風が来ているんだそうである。どうにも嫌な感じである。
ニュースも不穏な感じがして
今日の夕方、近所のスーパーマーケットは表情のない人たちが保存食を買い込んでいた。
あくびがでる。夜だから。
帰りの電車で、珍しく居眠りをした。
知らないうちに居眠りをした。
2時から2時間電話会議、その後、1時間、他社に原因があるトラブルの説明。3時間考えて喋り続けてちょっと疲れた。面白くはない。もっとレベルの高いことをしている人はいくらでもいる。
好きこそものの上手なれ。私はつまらなそうに毎日を過ごしている。やめろと言われてもやってしまうような仕事ではないのであった。
なんとなくできるからなんとなく続けている。私はむかしからそうであった。
なんとなくできるのである。だから「できない」ということがよくわからない。それはつまり「できる」ことの価値がわからない、でもあって、努力を怠るのであった。
化学も、楽器も、語学も、歌も、絵も、文章も、なんとなくできて、なんとなく以上のことができない。
どの分野でも、きりぎりすみたいなもので、ちょっと楽しんで、こんなものかと放っておいたらそれ以上のことができなくなっている。
それはつまり、アレです。
その道のプロ、というところまで行き着いてないのです。どれかひとつ、のめり込めばちょっと違ったようにも思う。
それをしなかった。
のめり込んだのはツーリング。
ツーリングのプロ、というのがあるのかどうか。仮にそうであったとしても、今は陸に上がった河童であった。
つまらなそうにしている
というのが人を遠ざけているのかもしれない。
人はひとりでは生きていけない。
他人に刺激をうけて、自分だけではわからない価値観や気づきをもらってはじめて自分の世界を広げていける。
そういう「人生を決定づける」良い出会いというのがこれまでの私にはなかった。強烈な引力を持つ人が周りにいたのに、それに気づかなかった自分がよくなかったのかもしれない。
そういうところに飛び込んでいく、というのができない性分でもあった。
無我夢中という状態と、私との間には、ちょっと距離がある。
中途半端なままである。
人として振り切れてないのであった。
昔、「あの女の人はブッ飛んでいる」という話を聞いたことがあった。
それはそれは筋金入りのライダーだったそうである。私のツーリング友達から聞いた話で、私はお会いしたことがない。
そのひとは「ちょっと走ってこようと思う」と言って、休みの前の日、仕事が終わってから都内を出発し、下道で新潟まで走って、日本海まで行き着いたらそのまま高速道路で帰ってくるんだそうである。
夜中じゅう走り通して、帰宅したらそのまま泥のように眠るんだそうである。
「下道でいくなんてちょっとありえないよね」
「景色も見ないで帰ってくるってどうなってるの」
「単純に走り過ぎだよね」
「でも走るのが好きなんだって」
ツーリング友達によれば、そういう人がいたんだそうである。
私の周りのバイク乗りはちょっと個性的な人が多くて、だからわたしもお仲間に混ぜてもらったようなものだけれど、まあその中には「吹っ切れてるね」と思うような人やこちらの価値観が根底から揺さぶられるような人がいた。今でも付き合いがある人は「複雑骨折でバイクに乗れないから、子供を産むチャンスだと思った」
という2児の母である。
方向性はさておき、私にはそういう突き抜けたところがないように思う。突き抜けたところがない、というよりは飽きっぽいので、もののうわっつらをなでてわかった気になるのである。
面白いね、といって周りにはばかることなく突き進むという馬力に欠けるのである。
なりふり構わずやり続ける、ということがないのであった。
中途半端、ということは、切り口を変えて言えばオールラウンダー、という言い方ができなくもない。
自分の中途半端さに悶々とする日々である。
これは、毎日「やりたいことをやっている」状態じゃないことをあらわしていて、じゃあ、やりたいことをやればいいじゃないか、ということであってそのやりたいことはなにかというと、別にないのであった。
つかもうとすると雲散霧消、蜃気楼のようになくなってしまうのである。
わたしのような人間はあまりものごとを考えないくらいがちょうどええのであろう。考え始めるとろくなことにならない。
そうすると今度は軸のなさが気になるのである。とっ散らかってどないもならない。百面相のほんとうの顔はどれなのだ。ほんとうが無いというのがほんとうなのだろうか。
そしてわたしは整理整頓できないまま、一生を終えるのかもしれぬ。デジタル遺産というのがある。突然いなくなってそのまま。周りは「忙しいのかな」と思って気にも留めない。そういうことが実際にありそうな世の中である。
だからといって何なのだ。これだけだらだらと日本語を継いで、何にもならぬ着地点である。着地すらしてない。
そういうことを外にだすのも大事なのであった。
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